Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

瀬田城

臨湖庵の入口にある瀬田城址碑

 古くは勢多城とも表記され、江南の旗頭であった山岡氏の居城であった。

 山岡氏は、景行天皇の末裔である伴善男の流れといわれ、代々の当主の名にある通字が「景」であるのも景行天皇の裔であるからという。系図はいくつかあるが、伴氏の流れで近江国大原を本拠とした大原氏から分かれ、甲賀郡毛牧に住んで毛牧を名乗った景広が、その祖であるのは間違いないようだ。

 その後、景広の子孫は大鳥居を名乗り、田上城を本拠としていたが、永享年間(1429-41)に資広が瀬田へ進出して山田岡に瀬田城を築いたといい、山田岡を略して山岡を名乗ったといわれる。また、一説には、祖景広が山間に館を構えていたので山岡と呼ばれるようになったともいう。

 だが、瀬田城の築城に関しては、現地の説明板のひとつには山岡景房が築いたとあり、別の説明板には永享元年(1429)に勢多判官章則が築いたとある。景房という人物は山岡氏の系図に出てこないため、恐らくは資広のことかと思われるが、勢多判官章則は瀬田の地と関わりのある中原章則のことだろうか。だとすれば、鎌倉時代末期の頃の話となり、時代が合わなくなるが、東海道から京へ入る要衝の地として、その頃から前身の城があった可能性もあり、瀬田城瀬田城の前身に関わった両者の伝承が混ざったのかも知れない。

 山岡氏は、築城以降、南近江の守護であった佐々木六角氏に仕え、景隆の代の永禄11年(1568)には信長の上洛にも抵抗しているが、翌年に三好討伐に参陣しなかったことを理由として信長に討伐され、一旦は没落した。しかし、同年中には信長に臣従して瀬田城の城主として復帰し、以降は信長と対立した足利義昭討伐などに功を挙げている。ちなみに、後に土佐一国を領した山内一豊も、一時ではあるが景隆に仕えていた。

 天正10年(1582)の本能寺の変の際には、景隆は明智光秀の誘いを断って瀬田橋を落とし、光秀に時間的損失を与える一方、自らは瀬田城に火を放ってゆかりのある甲賀に退いている。このように、光秀に対して明確に敵対姿勢を表し、勝者側として生き残る事に成功はしているのだが、城自体は、山崎の合戦後に再興されることはなかった。

 この後、景隆は秀吉に仕えたものの、翌年の賤ヶ岳の合戦の際に柴田勝家陣営に内通したことが発覚し、弟景佐と共に所領を没収されてしまう。しかし、道阿弥の名で知られる弟景友は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で主に調略によって功を挙げ、9千石の大身の旗本になったほか、景隆の子や景佐の系も旗本となって家は続いた。

 本能寺の変後に焼失した瀬田城は、前述のように再興されず、江戸期には膳所藩の別邸の用地として使われ、貞享元年(1684)に元膳所重臣三松氏の出身である禅僧天寧が庵を建て、水辺に臨むの意で臨江庵と名付けたという。現在は、そこから名を取った臨湖庵という料亭があり、その勝手口の門に城址碑がある。また、簡単に歴史を示した案内板が2ヶ所にあり、そこには石垣などの遺構が一部残っているとあったが、勝手口近辺の石垣は明らかに城のものではなく、遺構は見つけられなかった。

 

最終訪問日:2001/8/23

 

 

城跡・・・ではあるけど、痕跡の類は無かったですね。

臨湖庵の中にはもっと何かあったのかもしれませんが、無断で入るわけにもいかず・・・

湖岸の夕景がひたすらに眩しかった城跡でした。