Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鯰江城

鯰江城址碑と説明板

 愛知川沿いにある10m程の河岸段丘上にある城で、城郭内は平坦な平城の形式であるが、川の側から見ると平山城に見える。往時はもっと川が迫る崖であったらしく、いわゆる崖城であったのだろう。

 鯰江は、鎌倉時代より荘園があったことが史料に残っており、比較的古くから発展した地方である。ただ、城がいつ頃築城されたかというのははっきりせず、現地案内板には六角家臣鯰江氏、森氏の居城とだけあった。

 六角氏の家臣の鯰江氏は、佐々木六角氏の支流で、六角満綱の子高久が鯰江に住んで地名を称したというが、案内板には、荘園時代に興福寺領の被官云々とあるので、それ以前から鯰江を名乗った豪族は存在したようだ。この鯰江氏と佐々木六角系鯰江氏が全く別なのか、近江守護佐々木氏が在地の沙沙貴あるいは佐佐木と書く豪族と同化したと見られるように、佐々木六角系の血縁者を迎えて在地豪族を被官化したものかは、よく分からない。

 ちなみに、高久はもとは三井乗定の婿養子で、その子孫は三井財閥の三井氏である。つまり、戦国末期の三井家当主の越後守高安は、後述する鯰江城籠城の際の六角旧臣のひとりともいわれ、六角氏没落後は伊勢へ逃げ、子高俊が商売を起こした。これが越後殿の酒屋と呼ばれ、越後屋の屋号のもととなる。その後、江戸や京にも店を出し、更に高俊の子高利が「現金掛値無し」や「店前売」といった新たな商法で大きく発展させ、財閥の象徴三井総本家の祖となった。

 戦国時代に話を戻すと、鯰江氏の主君であった六角義賢は、足利義昭を奉じて上洛する信長から協力を要請されたが、宿敵の浅井氏と同盟している信長に協力するはずがなく、信長とは敵対する。しかし、永禄11年(1568)の信長による近江侵攻で、六角方の想像を超える兵力によって支城網は蹂躙され、義賢・義治父子は戦うことなく居城観音寺城を放棄して甲賀に潜んだ。

 これは、幕府軍に対して祖父高頼が採った作戦と同じで、以降、義賢は度々再興の行動を起こしているが、その中でも最も有名なのは、元亀元年(1570)の暗殺未遂事件だろう。この事件の直前、信長は朝倉攻めの際に浅井氏の寝返りによって京へ退却したのだが、更に美濃へ帰国するために近江の千種峠越えで移動する信長を、義賢の依頼で杉谷善住坊が狙撃した事件である。この善住坊は、甲賀五十三家にある杉谷家と関連があるともいわれ、甲賀と義賢の濃密な関係を窺わせる。

 しかし、それらの行動は事態を打開するに至らず、義賢は最終的に武力蜂起し、鯰江満介や同貞景ら六角旧臣に迎えられてこの鯰江城にて籠城したが、城は天正元年(1573)9月4日に攻略され、六角氏は完全に近江から姿を消した。

 この落城によって城は廃城となり、落城後の満介や貞景の動向は不明となるのだが、貞景の子定春は、後に秀吉に仕えて屋敷地を与えられ、それが今の大阪の鯰江の地名の起こりになったという。この話が本当であれば、落城後も鯰江の名字は名乗り続けていたことになるのだが、別の説として、近隣の森村、あるいは尾張国の森村に住んで森を名乗ったという説もある。そして、その末弟高次の子友重(高政)は、秀吉の備中高松城攻めの和睦の際の人質として毛利陣中に留まり、その縁で毛利姓を与えられ、後に佐伯藩の藩祖となった。

 城は、信長の上洛があった永禄11年(1568)に、六角義治が満介に命じて森氏の居城だった鯰江城を改修させたとあり、発掘調査では石積みが発見されている。これは当時、大名の主城クラスにあったもので、鯰江城の改修が六角氏主導で行われた証だろう。また、鯰江城が森氏の居城とあることから、織田氏に対する津田姓のように、鯰江氏と森姓は密接に関わりがあり、考えられているよりも早くから森姓を名乗っていたのかもしれない。

 現在の城跡は、愛知川沿いの道に表示があるだけで、遺構はほとんど残っていない。ただ、地形として河岸段丘が残っており、その上の集落がほとんど城跡にあるので、それらの地形をどのように利用していたか、大まかな推測はだけはできる。また、土塁なども一部に残っているらしく、それらしきものはあるにはあったが、見た限りでは後世に造られたものか判断がつかなかった。

 

最終訪問日:2001/8/27

 

 

愛知川沿いを走っていて、偶然見つけたお城です。

調べて見ると、歴史的にも重要な城でした。

城跡としては、遺構は少ないんですが、立派な河岸段丘が城の防御力を想像させる城ですね。