Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

八幡城 (近江八幡城)

本丸跡の村雲瑞龍寺を西ノ丸から眺める

 正式には八幡城、もしくは八幡山城だが、他にも同名の城があることや、市名が近江八幡であるため、近江八幡城と呼ばれることが多い。

 八幡山に最初に城が築かれたのは、長享年間(1487-89)で、六角家臣の守護代伊庭氏によって築かれた。ちょうど将軍家直轄領や近臣の領地を押領した六角高頼に対し、将軍義尚による討伐が行われた時期で、伊庭家の当主としては満隆かその子貞隆の代にあたり、どちらかが六角氏の居城であった観音寺城の支城として築いたものだろう。

 後に貞隆は、子貞説と共に六角氏に対し、文亀2年(1502)から翌年にかけてと永正11年(1514)の2度、叛乱を起こすが、周辺で主戦場となったのは、3kmほど東の水茎岡山城であったらしく、その頃まで八幡城が機能していたかは不明である。水軍兵力が主であった伊庭氏にとっては、内湖に近いとは言え、完全なる山城の八幡城よりも、浮島のような岡山城のほうが戦い易かったのかもしれない。

 現在残っている城は、天正13年(1585)に豊臣秀次が近世山城として再築したものである。築城の際には、安土城などの周辺の城の資材を流用し、防御の役目だけではなく水運をも目的とした八幡堀を穿ち、碁盤の目状に城下町を整備した。また、城のある八幡山は標高283mで峻険であるが、城内に飲み水はなく、そのかわり城下町のあちこちに寺院を配して防衛施設の代わりとしている。城単体では水の手が確保できないため、惣構えを用いた町ぐるみでの防衛構想があったようだ。

 天正18年(1590)に起こった小田原征伐後、秀次は尾張清洲に加増転封され、代わって京極高次が入部するが、高次の治世は5年で、文禄4年(1595)には大津へ移った。これにより、主を失った城は廃城となるが、奇しくも同年に築城者である秀次が秀吉によって自害に追い込まれている。

 秀次は、確かに思慮の足りない言動はあったようだが、後世に語られる、いわゆる殺生関白としての言動には、秀頼擁立を正当化する秀吉のプロパガンダの臭いが漂う。八幡城下に対して秀次は善政を敷いていたといわれ、プロパガンダの可能性を考慮に入れると、秀次の治世の象徴である城を破却して秀次色を消し、領民に良い政治を敷いた武将という記憶を忘れさせるよう仕向けたと考えられるが、どうだろうか。

 城本体は、廃城の際にかなり破壊されたようだが、当時の本丸大手門の石垣等は残っている。縄張は、本丸を中心に南東に二ノ丸、西に西ノ丸、北に北ノ丸という長方形の郭を配したシンプルな形で、通常時は、城主は麓の居館に起居していた。城の存在期間は10年と短かったが、秀次が商業を重視して町割りを行ったため、廃城後も商都として近江八幡は生き残り、今も残る八幡商人の屋敷の重厚さや、商業界に多くの人物を輩出した八幡商業学校の誕生へと繋がったことを考えると、秀次の治績はもっと評価されても良いのではないだろうか。

 現在は、町並みと八幡掘が観光の目玉となっており、八幡山へはロープウェイが通じ、観光客やハイキング客が多い。本丸跡には、秀次の母親ともの菩提寺である村雲瑞龍寺が京都から移築されており、部分的に重厚な石垣も見ることができる。また、北ノ丸や西ノ丸への道はよい散策コースとなっており、こちらは遺構としては物足りないものの、周囲の景色などが素晴らしく、歩くととても心地良かった。

 

最終訪問日:2002/3/16

 

 

八幡堀や八幡城の旧城下町は、すっかり滋賀の観光名所となっていますね。

ロープウェイもあるので、城跡にも人がすごく多いです。

石垣等の遺構は少ないですが、全体の構造は掴みやすい城跡でしたね。