Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

山崎山城

山崎山城解説板

 近江の豪族山崎氏の居城。

 山崎氏は、近江源氏佐々木氏の庶流で、佐々木経方の子行定から分かれたといい、その孫憲家が近江国犬上郡山崎の地を領して山崎を名乗ったとされる。ただ、分かれたとされるのが平安時代末期で、しかも中世の系図が不明確であるということもあり、出自の信憑性は低く、力を蓄えた土豪が佐々木氏に仮冒した可能性も捨てきれない。また、寛政重修諸家譜では、相模国山崎を名字の地とし、後に佐々木氏に仕えたとしている。いずれにしても、信頼に足る系図が無いのが実情のようだ。

 山崎氏が歴史上に明らかとなるのは、戦国時代からで、六角高頼やその次男定頼の代、つまり六角氏全盛の頃に、六角氏の家臣として登場する。だが、片家が当主であった時の永禄6年(1563)に、いわゆる観音寺騒動が起き、片家の娘婿であった後藤壱岐守が定頼の孫義治に謀殺されたことから、主家とは不和になった。その後、片家を始めとする六角家臣団は、蒲生氏の仲裁で義治と和睦し、六角氏式目という、主君の権限を制限する珍しい家内法が制定され、表面上は問題が解決されたかに見えたが、これだけでは不和を解消する手立てとならなかったようだ。

山崎山城主郭部全景

 やがて、同11年(1568)に信長が上洛戦を開始すると、六角氏から離反する家臣が相次ぎ、片家も六角家から離れて信長に仕え、その後は足利義昭追討戦などの織田家の各合戦に従軍した。また、天正10年(1582)4月には、この山崎に御茶屋を設け、片家が信長を接待した記録が残っている。

 天正10年(1582)の本能寺の変の際には、片家は安土城の二ノ丸を守備していたといわれるが、信長の死を知って明智光秀に味方し、同じく安土城留守居で信長の妻子を守って日野城に後退した蒲生賢秀とは行動を異にした。

 片家が光秀に味方した理由は、この山崎山城を光秀に攻められて降伏したともいわれるが、本拠に後退すれば伊賀の織田信雄や伊勢の親戚筋との共闘が期待できる蒲生氏に比べ、明智方に落ちた長浜城安土城に挟まれる山崎山城では、地勢的に不利な面があり、抗戦というほどの戦意も無かったと思われる。とは言え、それなりの戦いはあったらしく、山崎山城は兵火に遭い、系図などの伝来の古文書はこの時に失われたという。

南側虎口付近の石垣

 その後、一旦は光秀に与した片家であったが、明智方が劣勢と知るや今度はさらりと秀吉方に寝返って本領の安堵に成功し、同年末に摂津国三田3万2千石を与えられて移ったため、山崎山城は廃城となった。そして、城は城割で破却を受けたようだ。

 城跡は、信長が整備した下街道を見下ろせる比高50mほどの山崎山の頂上部に築かれ、尾根を堀切で区画して東半分に細長く構築されているが、この東半分という構築の仕方を見ると、東麓の下街道を監視する目的の城であったというのがよく解る。ただ、山崎氏の身代に比べると遺構が小規模過ぎるため、恐らく給水施設のある西尾根にも何らかの付随する遺構があったものと思われるが、西尾根は改変が大きく、遺構らしいものは何も見当たらなかった。

山崎山城説明板

 発掘調査では、70mに渡って石垣が築かれていたことが判っており、改修の時期は、本格的に石垣が築城に導入された天正年間(1573-93.1)初期頃と考えられている。また、遺構西端の最高部は四角形に石垣が残っており、この部分に櫓があったのだろう。今でも、ここからの眺めは、素晴らしいものがある。

 2001年に訪れた時は、水道施設の工事で城跡に入れなかったため、改めて機会を作り、整備された城跡を訪れた。ただ、現代風にきれいに整備されていることもあり、残念ながら城跡には古城という雰囲気は少ない。言うなれば、発掘調査の時のまま公園化したという感じなのだが、廃城後に破城を受けて埋められたことを考えると、崩された石垣を復元するというのも何か違うし、こういう整備の仕方も致し方ないのだろう。城跡かどうかも分からない城址公園に比べれば、石垣跡や竪堀が残っているだけ良しとすべきなのかもしれない。

主郭部に所々残る石垣

 

最終訪問日:2012/5/12

 

 

城跡への遊歩道は、山の北東側にあります。

山の北西側から入ることができる、綺麗に舗装された道は、水道施設までしか行くことが出来なかったので、注意が必要ですね。

ええ道やんと何も考えず登ってしまうと、城まで行けそうで行けないだけに、ものっ凄いタイムロスをします!