Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

石田三成出生地

石田三成の像と出生地の碑

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、事実上の西軍の総大将だった石田三成の出生地。石田正継の三男として生まれたが、誕生日は詳しく伝わっておらず、永禄3年(1560)とだけわかっている。

 出自である石田氏は近江の豪族で、地理的関係から想像できるように、戦国時代は浅井氏に臣従していたといわれる。浅井氏滅亡後は在地豪族として零落していたが、三成が預けられていたすぐ近くの観音寺に、長浜城主となっていた秀吉が鷹狩の帰りに立ち寄って茶を所望したところ、一杯目はぬるくて湯呑み一杯の茶を、2杯目はちょっと熱めで半分の茶を、3杯目は熱くて少しの茶を小坊主であった三成が出した。実に気の利いた茶の出し方を秀吉は気に入り、小姓として取り立てたという。だが、この逸話は江戸時代の史料のもので、創作ともいわれる。

 史実としての三成は、天正2年(1574)か同5年(1577)に父や兄と共に秀吉に召し出されたといわれ、三成の親族が残した史料には、18歳の頃に播磨国姫路で仕官したとあり、仕えた時にはすでに成年であったようだ。そして、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が斃れた後、その後継者争いを制した秀吉の側近として頭角を現して行く。こうして、他の近江出身の吏僚と共に、遠征の補給、輸送といった後方支援や、各地の代官として治績を挙げるのだが、意外なことに、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では一番槍を挙げたとも言われ、槍を振るう武将としての側面も持っていた。

 三成の逸話としてもうひとつ有名なものは、猛将として知られた島左近清興を召し抱えた話だろう。講談としての逸話は、天正13年(1583)に4万石の水口城主となった三成が、その禄の半分である2万石でもって清興を召し抱え、後には、佐和山城と共に三成に過ぎたるものとして挙げられたとある。ただ、これも創作のようで、三成自身が水口城主にはなっておらず、また、清興が確実に石田家臣として見えるのも、天正18年(1590)の小田原の役の頃からであり、その直前まで伊勢亀山にいた可能性があるという。

 小田原の役の後、三成は、天正19年(1591)に城代として佐和山城に入り、文禄4年(1595)には正式に佐和山城主に任ぜられ、五奉行として豊臣政権を支えた。しかし、朝鮮の役をきっかけに、いわゆる文治派と武断派の内部対立が深まり、慶長3年(1598)の秀吉の病没後はそれが先鋭化する。そして、武断派による三成襲撃事件が起き、家康の仲介で三成は佐和山城へと退いた。

 その後、家康は秀吉の遺命に背いて有力大名との縁組を画策し、五奉行筆頭の浅野長政や、五大老前田利家の跡を継いだ前田利長、次いで同じく五大老上杉景勝に謀反の疑いを掛け、政敵を潰すと共に政権内の火種を醸成して行く。その動きを見た三成は、家康が会津征伐で大坂城から離れたのを好機と見て大坂城に入城し、残る三奉行と共に五大老毛利輝元の入城を請い、家康に対する弾劾状を各大名に書き送った。

 そして、7月に挙兵した西軍は大津城、田辺城、伏見城安濃津城、松坂城など各地の城を攻撃し、三成を含む本軍は東軍西上の報せを受けて関ヶ原で東軍を迎え討ったものの、小早川秀秋の裏切りや吉川広家の不参戦により、敗れ去るのである。

 この一連の流れについて、従来は上杉氏との共闘も含めて三成が主導権を握って行動したと見られていたが、最近ではそれが見直され、四国九州への影響力増大を図る輝元も、お飾りではなく一定の主体性を発揮したと見られているようだ。一説に、勝利者側であった東軍にとって、自らを正当化する上で解りやすい敵が必要であり、東軍として活動した武断派と対立していた三成が、必要以上に敵として誇張された事が要因であるともいう。

 三成は、関ヶ原での敗戦後、戦場を離脱して伊吹の山塊を越え、江北の木ノ本の古橋に潜伏したが、最終的には岩窟で体を壊して動けなくなっていたところを田中吉政に捕らえられたとされる。そして、家康が本陣を置いていた大津に護送されて対面した後、10月1日に京の六条河原で斬首された。享年41。

 石田氏の居館があった昔の石田郷は、今は長浜市石田町となり、長浜市の東の奥座敷のような感じで、今でも三成出生当時とあまり変わらないような田園だった。石田氏の居館があったとされる出生地は、20~30軒の集落の一角にある石田会館付近で、三成の像や出生地碑がひっそりと建っている。

 

最終訪問日:2001/8/31

 

 

石田町横山城にほど近く、同時に訪れました。

近くの大きな道は駅前通りという名前で、長浜駅前からひたすら真っすぐで行くことができます。

解りやす過ぎますね!