Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

賤ヶ岳古戦場

 天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の後、信長の実質的な後継者をの地位を巡り、柴田勝家羽柴秀吉の間で紆余曲折があったが、最終的にその帰趨を決する戦いとなった翌同11年(1583)4月の賤ヶ岳の合戦が行われた古戦場。

 本能寺の変で信長とその嫡男信忠が横死した後、11日後の山崎の合戦で明智光秀を破った秀吉と、織田家の重鎮であった勝家は、6月27日に開催された清洲会議で後継者を巡って争ったが、嫡孫三法師を擁した秀吉の方針が採用され、秀吉が後継者争いで主導権を握ることに成功する。ただ、秀吉はこの時、合意のため、三法師が入城する安土城から近く、自らの居城でもあった長浜城を勝家に譲り、ある程度の譲歩を見せた。また、勝家も対決は翌年と予想し、冬の前に秀吉と和睦を結んだ。

 しかし、秀吉は、勝家が雪で動けなくなるとすぐに長浜城の柴田勝豊、岐阜城神戸信孝、伊勢の滝川一益を攻め、親柴田勢力の各個撃破に動いた。この動きに対し、勝家は春の雪解けを待たざるを得ず、2月末になってようやく越前から近江に出兵したが、その時でも雪を掻き分けて進む行軍だったという。このため、柴田軍が北近江の柳ヶ瀬に布陣したのは、3月12日であった。一方の秀吉も、北近江へと兵を進めて対峙し、双方の睨み合いは1ヶ月にも及んだ。

 この睨み合いの間、秀吉軍が兵力の大部分を北近江に在陣させていたことにより、後方の反秀吉勢力が活発化し、伊勢の滝川一益が美濃に侵攻した上、降伏していた神戸信孝も再び反旗を翻した。このため、秀吉が主力を率いて美濃へ向かうこととなる。

 この動きを察知した柴田軍は、血気に逸る佐久間盛政の具申もあり、4月19日から翌日にかけての深夜に、盛政の軍勢が大岩山の中川清秀の陣へ夜襲をかけて勝利し、清秀を敗死させた。勝利の報を得た勝家は、すぐに元の陣へ戻るよう盛政に命じたが、功を誇る盛政は緒戦の勝利で得た大岩山などに隊を留まらせ、これが結果的に勝負の行方を左右することとなる。

 この大岩山での清秀の敗死と、高山右近重友が守っていた岩崎山の敗報を聞いた秀吉は、大垣からすぐさま兵を返して50km余りを5時間で駆け通し、20日のうちに木之本に現れた。中国大返しと同じ、得意の高速行軍である。そして、その深夜から翌日にかけ、敵陣深く入り込んだ形になっている盛政の軍勢を攻撃した。

 盛政の軍勢は、秀吉本隊の到着を知り、20日の深夜からあわてて帰陣を始め、やがて追撃を受けるものの、盛政の弟柴田勝政の救援を受けながら善戦している。しかし、盛政の軍勢が堅いと見た秀吉は、同じく帰陣を図っていた勝政の軍勢を標的とし、後に七本槍三振太刀と呼ばれたように、秀吉を旗本として守るはずの近習衆にまで攻撃を指示した。そして、この直後、後方に位置する前田利家・利長父子が単独退却したことから、状況が一変する。後詰となるべき軍勢の支援を失った盛政と勝政は敵中に孤軍となり、劣勢を見た不破勢や金森勢も退却を始め、他の部隊の攻撃が集中したことで勝家本軍も支え切れなくなって総崩れとなり、戦いは秀吉の勝利に帰した。

 この戦いは、賤ヶ岳一帯を含めた広大な範囲で行われた山岳戦で、賤ヶ岳の名が冠されているものの、そこだけの合戦ではない。賤ヶ岳自体には、最初は秀吉方の桑山重晴が砦を築いて守っていたが、中川清秀の敗死で20日の日没後に撤退し、その日の夜中に本格的な戦いが開始されると、丹羽長秀などと共に重晴が再び賤ヶ岳へと登って陣した。その後、総攻撃する秀吉本隊の拠点となったため、賤ヶ岳の合戦という名が付けられているのである。

 賤ヶ岳山頂からは、勝家を守って討死した毛受兄弟の墓も畔に建つ余呉湖や、反対側の琵琶湖、竹生島の眺望がすばらしい。これらを眺めながら、当時の戦況を想像するのも愉しいだろう。賤ヶ岳の標高は約422mあるのだが、麓からリフトも整備されており、登山もそれほど険しくはないので、身構えず、割と気軽に登ることができる山でもある。

 

最終訪問日:1995/8/22

 

 

古戦場で、歴史好きじゃなければ場所もはっきり分からない場所と思っていたのですか、登山の名所になっているようで、訪れた時には多くの人がいてびっくりしました。

余呉湖も琵琶湖も見えて眺望が素晴らしいので、確かに登山の目的地としては最適ですね。