Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

柳ヶ瀬トンネル

 明治17年(1884)4月16日に開通した、初期の北陸本線の鉄道トンネルで、平成15年(2003)に土木学会選奨土木遺産にも選ばれている。全長は1352m。

 柳ヶ瀬トンネルは、北陸本線のトンネルとして長く使われ、昭和32年(1957)に北陸本線が深坂峠経由に変更された後は柳ヶ瀬線の一部となり、同39年(1964)に廃線となった後は車道トンネルに転用された。開通当初は日本最長の鉄道トンネルであり、現在は現役のトンネルとして2番目に古いという。ちなみに、併走する北陸道のトンネルも同名である。

 北陸本線は、北陸で穫れた米を京都大阪の市場へ輸送することを主目的として計画されたが、当初の東海道線が長浜と大津の間を水運で代替したように、金ヶ崎と長浜の間をまず建設し、長浜と京都大阪、金ヶ崎と北陸各都市の間は、水運で代替するという予定であった。そして、明治15年(1882)3月10日に長浜~柳ヶ瀬間と洞道口~金ヶ崎間が開通したが、この柳ヶ瀬トンネルの部分は工事が難航して遅れ、当初は徒歩による連絡であったという。トンネルが開通したのは2年後で、これにより、長浜から金ヶ崎までが鉄路で結ばれたが、この区間敦賀線と呼ばれ、明治42年(1909)まで所管としては東海道線の支線であった。

 柳ヶ瀬トンネルを含む周辺の区間は、トンネルの滋賀側出口の雁ヶ谷付近を最高所とした急勾配であり、補助機関車を連結して運行していたが、それでも雪や凍結などによる車輪空転などで、しばしば列車が走行不能に陥ることがあったという。特に昭和3年(1928)12月の窒息事故では、トンネル内で貨物列車が走行不能となって煤煙が充満し、窒息した乗務員に死者が出るという惨事となった。

 これは、柳ヶ瀬トンネルが鉄道建設初期のトンネルであるが故に断面積が小さく、煙が拡散しないというのも一因であったようだ。そして、このトンネル事故が契機となり、輸送量の拡大と安全性の観点から、現在の線路である深坂峠経由の新線が計画されるに至ったのである。

 現在の柳ヶ瀬トンネルは、大型車や自転車、歩行者などの通行は許されておらず、言わば、普通自動車と軽自動車と自動二輪車の専用トンネルと言えるだろうか。そのせいもあって、通勤などで自動車やバイクを使う人にとっては、大型車も通らない便利な道となっており、迂回路としてよく使われているようだ。

 もともとが単線の鉄道トンネルということもあって、トンネル内部ですれ違いが難しく、信号による交互通行となっているのだが、トンネル手前で信号待ちをしていると、ただ待っているだけの手持ち無沙汰な時間が流れ、往時の乗客も同じように、風景も変わらない手持ち無沙汰の時間を持て余していたのだろうかと思うと、なんだか面白い。

 トンネルの内部は独特で、横壁の下の部分が石積みでできており、なんだか道路部分だけが高くなっているような錯覚を覚える。天井はコンクリートだったが、往時はレンガでアーチを造っていたとされ、補強と剥落防止のために上からコンクリートを塗られたものだろう。天井まで往時のままであればもっと往時の雰囲気を味わえるのだが、現役である以上、安全が第一なので、そこは仕方の無いところだろうか。

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

初期の鉄道トンネルですから、狭くて全体的に圧迫感があったんですが、それだけに独特の走行感でしたね。

北陸道の跡を辿って行くのも、面白そうです。

制覇してみたいですね。