山内上杉氏の重臣、白井長尾氏の本拠。シライではなくシロイと読む。
長尾氏は、坂東八平氏に入ることもある名族で、一般に高望王を祖とする桓武平氏とされるが、高望王の子平良兼系とする説と、同じく良文系とする説がある。また、土着豪族の仮冒という説もあり、出自ははっきりとしていない。
この桓武平氏の諸族は、関東各地に勢力を張ったが、相模国鎌倉郡では鎌倉章名より始まる鎌倉党が栄え、その孫景明の子である景弘が長尾荘に住んで地名を称したのが、長尾氏の始まりである。
しかし、頼朝の挙兵の際に平家側として活動したため、鎌倉時代初期には三浦氏の家臣であったに過ぎず、それも宝治元年(1247)の三浦氏の没落により、長尾氏のほとんどは滅んでしまった。
数少ない生き残りであった四郎景忠の子孫が、鎌倉時代中頃に将軍となった宗尊親王に従って京から下向した上杉氏の家臣となり、上杉氏の隆盛と共に、ようやく長尾氏も発展したのである。
上杉氏と長尾氏の初期の繋がりは不明だが、四郎景忠の孫とされる景為が、鎌倉時代末期から南北朝時代に上杉配下として転戦していることが見え、その子左衛門尉景忠の頃には、上杉家中で確固たる地位を築いていた。この景忠の子、もしくは孫である清景が、白井城を本拠とした白井長尾家の流れとなる。
白井の地と長尾氏の関わりについては、宗尊親王が将軍であった康元元年(1256)に景熈が上州白井荘を賜ったと系図にあるものの、真偽は不明という。また、後の白井長尾家も、白井への具体的な入部時期が不明で、本拠たる白井城の築城年代にも諸説があるのだが、一般的には、城自体は景仲の頃に築かれたと考えられている。
景仲は、本宗家である鎌倉長尾家から白井長尾家へ養子に入った人物で、その時代には、応永23年(1416)から翌年に掛けての上杉禅秀の乱、永享10年(1438)から翌年にかけて鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が対立した永享の乱、持氏の子成氏と上杉一族が対立し享徳3年12月(1455.1)から30年近くに渡って争った享徳の乱と、関東では争乱が多かった。
白井城の築城には、このような背景があり、具体的には、上野が戦場になる恐れがあった永享の乱の頃に築かれたのではないだろうか。
景仲は、白井長尾家で初めて山内上杉家の家宰を務め、難事が続く中で一族随一の実力者となり、享徳の乱では太田道真と共に上杉一族の中核を担った。そして、景仲の子景信も家宰を務めたが、景信の次は総社長尾家の忠景が家宰に就いたため、景信の子景春は、その不満から文明8年(1476)に叛乱を起こしている。
この景春は、北条早雲と並ぶ関東下克上の雄で、関東一円を舞台にした乱の緒戦は優位に戦況を進めていたが、道真の子で扇谷上杉家の家宰を務めた道灌の活躍によって各地の親景春勢力が敗れると、次第に利を失い、同12年(1480)には景春はすべての拠点を失った。ただ、この頃に景春が主に使っていたのは鉢形城であり、白井城自体は動向が不明確で、一説に上杉一門の越後上杉家の定昌が奪って駐屯地にしたともいう。
乱後は、景春の足利氏の下への落去により、城は越後上杉家の遠征先拠点として使われ、長享2年(1488)には、原因不明ながら当主の定昌が城で自害もしている。この自害には、景春が奪回を図って急襲したためという説もあるのだが、その後も城は越後上杉氏によって管理されたようだ。
景春は、その後も成氏や扇谷上杉家と共に山内上杉家と争ったため、家督は、父と袂を分かった子景英が継いだが、城は依然として上杉氏が保ち、永正7年(1510)には山内上杉顕定の養子憲房が城に駐屯し、顕定による越後の長尾為景の討伐に従った事が見える。
同年の顕定討死後も憲房の支配下にあり、顕定の死を機に景春が城の奪還を図って失敗しているが、この頃の城主に関しては不明確な部分もあるようだ。そのため、永正年間(1504-21)初期頃に景春が一時復帰していたとも、景春が同11年(1514)に没したのは白井城であったとも伝わる。
その後、顕房の山内上杉家相続を景英が援け、その功で永正9年(1512)から大永4年(1524)の間に白井城は返還されたが、景英の子景誠は大永8年(1528)に家臣に暗殺されてしまい、家督は総社長尾家の憲景が継いだ。この継承は、箕輪の長野業正が斡旋したもので、以降、長尾氏は次第に業正の下風に立たされるようになっていく。
憲景は、以降も業正と共に山内上杉家を支えたが、相模の北条氏の台頭により、足利・上杉連合軍は天文15年(1546)に河越城で敗れ、上野すら維持できなくなった上杉憲政は、同21年(1552)かその数年後、あるいは永禄元年(1558)頃に越後へ落ち、憲景もこれに同道したという。
この同道は、越後への橋渡しの役目だったようで、白井城はこれ以降も保たれており、その後も憲景は持ち堪え、長尾景虎(上杉謙信)の越山の際には、関東へ出るルート上の重要な拠点となった。
これ以降の白井城の事跡を拾うと、永禄9年(1566)に武田軍の攻撃を受けたことが見え、翌10年(1567)3月には武田軍の再侵攻で落城し、憲景は佐竹氏の下に逃れている。
代わって、城には甘利信忠が入り、武田信玄も一時在城したようだが、永禄12年(1569)になると相越同盟による状況の変化で再び憲景が入城した。そして、永禄13年(1570)に真田幸隆が一時奪い、元亀3年(1572)には再び幸隆に攻められ落城したという。ただ、この辺りの年代は史料の解釈に差があり、各説で錯綜が見られる。
この後、天正6年(1578)の謙信没後の御館の乱の際には、憲景が城に在り、上杉景虎を支持したが、上杉景勝の勝利を受けて武田方へと転じ、天正10年(1582)3月の武田氏滅亡後は織田家臣滝川一益、同年6月の本能寺の変後は北条氏に属した。そして、同18年(1590)の小田原の役の際に豊臣軍の北国勢に攻撃され、憲景の子輝景、もしくは景広が、5月15日に開城している。
戦後、旧北条領は、ほぼそのまま家康に与えられ、白井城には本多広孝・康重父子が入り、関ヶ原の合戦の翌年の慶長6年(1601)に戸田松平康長、さらにその翌年に井伊直政の次男直孝、元和2年(1616)に西尾忠永、同4年(1618)からは康重の次男紀貞へと代わった。しかし、紀貞は同9年(1623)か翌年に嗣子無く没したため、藩は無嗣断絶となり、城も廃城となっている。
城は、利根川沿いによく見られるような、河岸段丘を利用した、いわゆる崖城で、崖の部分は鋭く切り立っているが、城内には平場が多い。地勢を見ると、西に吾妻川、東に利根川を控えた合流地点北側の台地に在り、合流点に最も近い台地突端の南側から、平場が続いて地形的防御力の薄い北へ郭を重ねた梯郭式の城である。
縄張は、台地先端の本丸から三角形の底辺部を付け足すように二ノ丸、三ノ丸と続き、三ノ丸が城内で最も広い。三ノ丸北側には北郭、金比羅郭と続き、これら主郭部分は、三ノ丸の東側を頂点とした東向きの三角形となる。
南の台地上先端部には、本丸からやや下がって笹郭があり、その東側の崖下に南郭、さらに一段下がって新郭があったが、この崖下の郭は、本多時代の近世城への改修時の拡張部分ではないだろうか。
また、本丸北東側に武田系城郭で見られる三日月堀があることや、本丸先の崖側に笹郭を置くのは名胡桃城と全く同じであることから、これらは武田氏やその家臣真田氏による改修部分と見られている。
これ以外では、大手桝形に戦国時代末期の石垣が残るほか、本丸及び北郭に櫓台の遺構があり、東遠構や北遠構と呼ばれる惣構の堀も残っているなど、見所はかなり多い。
江戸初期という早い段階の廃城で、しかも史跡指定が平成16年(2004)と遅かった城だが、開墾や土地改良事業を経ている割には非常によく遺構が残っており、農地化した二ノ丸以下も、縄張を辿るのは容易だ。この事は、山城ならいざ知らず、かつての宿場町近傍の城としては、開発を免れた非常に幸運な城ではないだろうか。
最終訪問日:2014/5/10
城のすぐ下の白井宿は、今は観光地化していて、訪れている観光客も多かったんですが、お城まで足を延ばす人は少ないようですね。
自分を含めて2組だけで、落ち着いて散策できました。
長閑な農村風景の中にあるお城で、農地に明確に残っている遺構は見分けやすかったですし、縄張を思い浮かべながら散策するのが、非常に愉しい城でしたね。