Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

黒羽城

黒羽城本丸全景

 天正4年(1576)に大関高増によって築城され、本拠を白旗城から移したとされるが、それ以前にもこの地には城砦としての機能があったという。

 大関氏は、武蔵丹党の出自とされ、本貫は武蔵国児玉郡大関村とも、常陸国小栗の大関郷ともいわれるが、詳細は不明である。南北朝時代足利尊氏・直義兄弟の対立に、那須氏に従って家清が出陣しており、この頃には那須郡に移住して那須氏の臣下となっていたようで、やがて那須七騎のひとつとして数えられるようになった。

 以降の大関氏は、那須臣下として勢力を伸ばしていくのだが、那須氏が応永23年(1416)の上杉禅秀の乱の少し前から内訌状態となり、乱をきっかけに上家と下家に分かれて並立するようになると、当主増信は本家筋である上那須氏に与している。

 その上那須氏は、資親の時に嗣子が無く、白河結城氏から資永を養子として迎えていたが、資親の晩年になって資久が生まれたため、永正11年(1514)の資親の死後に家督争いが生じた。この時、争乱の中で資永が資久を捕えて殺害したものの、資永も大田原資清に討たれ、上那須家は断絶してしまう。

 この争いでは、大関氏の当主宗増は、当初は資清と協力して資久を援けていたのだが、上那須氏の滅亡後、那須氏を統一した下那須家の資房の下で資清が信任を得ていくと、これに危機感を持った宗増は資清を陥れ、失脚させた末、出家させた。

 しかし資清は、諸国遍歴の末に復帰を果たすと、宗増の子増次を討って宗増の養嗣子に長子高増を送り込み、実質的に大関家を乗っ取っている。これにより、これ以降の大関氏は、大田原氏と行動を共にするようになった。

 高増は、那須高資とその弟資胤に仕え、合戦でも功を挙げたが、永禄3年(1560)からは主家と対立し、佐竹氏などと協力して主家と争っている。だが、資胤は合戦に強く、結局は高増が叛乱したことを陳謝する形で和睦し、以後は那須家の重臣として活躍した。また、この時期に防御力を重視した城の重要性を認識したといわれ、黒羽城を築いたのもこの時期である。

 天正18年(1590)の小田原の陣では、主家である那須氏が態度不明瞭であったのに対し、佐竹氏らと共に秀吉に謁したことで、豊臣政権下で父子併せて1万3千石の大名として独立に成功した。石高は後に1万8千石となり、そのまま明治維新まで黒羽の地を領地として存続し、戦国時代から本拠を守り続けた数少ない大名のひとつとなっている。

 城は、北に山が連なる、東西を那珂川と松葉川に挟まれた丘陵にある要害で、特に西側は那珂川の崖が防御力として機能していた。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦時に、高増の三男資増が徳川方に属してその家臣を招き入れ、会津上杉景勝に対する抑えとして城を改修し、この時に現在残っている城の形ができたと考えられている。

 城の構造としては、最高所に土塁で囲まれた広い本丸を置き、北に二ノ丸、南に三ノ丸を置いた形で、桝形や堀などが厳重さを漂わせていた。さらに、周辺の寺院も土塁などで囲まれており、その規模から、有事には城の一部として機能するように造られていたのだろう。

 明治4年(1871)の廃藩置県で機能を失い、同6年(1873)の廃城令で正式に廃城となった後、やがて公園化されたのだが、現在でも空堀や水堀、土塁などは保存状態が良く、所々に石垣があるほか、桝形もはっきりと残っていた。近世城としての構造物に存在感がある城である。

 

最終訪問日:2001/9/28

 

 

訪れた日が雨だったので、濡れながらかなり駆け足での散策となってしまったんですが、戦国末期から江戸時代初期の築城様式をよく残していて、もっとじっくり散策したい城でしたね。

芭蕉奥の細道ゆかりの地でもありますので、悪天候でも観光客が意外と多かったのも印象的でした。

そのおかげもあって、駐車場や遊歩道などの施設が整備されていて、散策しやすかったです。