城が築城された時代は古く、この辺りを領した笠間時朝が、鎌倉時代の初期である元久2年(1205)か承久元年(1219)から、16年の歳月を費やして築城したとされ、現在の笠間稲荷周辺にあった居館に対する詰として機能していたという。
時朝は、宇都宮頼綱の弟塩谷朝業の次男で、笠間氏の祖である。笠間に入部した経緯は、城のあった三白山正福寺と引布山徳蔵寺との寺領をめぐる争いで、正福寺側から頼綱に援軍の要請があり、元久2年に時朝が遣わされたのが最初という。
時朝は、要請に沿って徳蔵寺を滅ぼしたが、正福寺が時朝を恐れて暗殺を企てたとしてこれも滅ぼし、以後は笠間の押領使となって地名を名字とした。この背景には、北条時政の女婿である頼綱や、新古今和歌集に多数の歌を残すほど文化人として幕府内で影響力があった時朝による、宇都宮一族の勢力拡張のための謀略とも考えられるが、詳細は不明である。
鎌倉幕府滅亡後、笠間氏の当主であった泰朝は、惣領である宇都宮氏と同じく南朝に属し、佐竹一門の小瀬(佐竹)義春に笠間城を攻められたが、これを撃退したという。しかし、最終的には利あらず、北朝方に降伏した。その後はしばらく逼塞していたものの、孫家朝の時に3代将軍足利義満から地頭職を安堵されている。
そして、家朝の子宗朝の頃になると、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立が起こってくるが、宗朝は、惣領宇都宮氏とは反対に幕府の支援する上杉氏側に立ち、独立色を強めていったようだ。だが、後に宇都宮氏の勢力が強勢となると、再び家臣の立場に終始している。
その後の笠間氏は、近隣の益子氏等と争いながら戦国末期まで続き、天正18年(1590)の小田原の役では、笠間氏の当主綱家が宇都宮国綱に随行して秀吉に謁見した事が見えるが、直後にこれまでの反抗的な動向から宇都宮氏に攻撃され、笠間氏は滅んだ。この時に笠間城も落城したのだろう。
笠間氏累代の居城として続いてきた笠間城には、宇都宮氏が笠間支配をするに当たり、文禄元年(1592)に家臣の玉生高宗が城代として入城したというが、玉生氏の系図には勝昌なる武将が見え、子範昌が同4年(1595)に岡本城へ移ったとする。そして、この2年後の慶長2年(1597)には、宇都宮氏が改易されてしまい、代わって翌慶長3年(1598)に蒲生秀行が宇都宮へ入部した。
これにより、当然ながら笠間一帯も蒲生氏が支配し、城には城代として蒲生郷成が入っている。郷成は、石垣や天守を築いて城を改修したが、この改修によって現在残る城の形が整えられた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、基本的には親藩か譜代が入部する城となり、松井松平康直、小笠原吉次、その改易後は戸田松平康長、永井直勝と続く。
直勝の後、浅野長政の三男長重が笠間藩を治めているが、これは、長重が2代将軍秀忠の小姓だった関係からであり、譜代の扱いと言えるだろう。この庶流の浅野家は、子長直の時に赤穂城受け取りを務めてそのまま赤穂へと移り、長直の孫長矩が刃傷事件を起こしたため、忠臣蔵で有名となった。
長直の後は、井上氏、本庄松平氏、井上氏と、2代から3代で替わり、延享4年(1747)からは牧野氏が8万石で支配し、そのまま維新を迎えている。
維新後の笠間城は、明治4年(1871)の廃藩置県の頃から解体が始まったらしく、同6年(1873)の廃城令によって正式に廃城となった。
城は、中世の山城を拡張した形で、本丸を中心に稜線に沿って二ノ丸を構え、帯郭に近い三ノ丸がその周囲を囲っており、東国の城には珍しく石垣が用いられている。これは、蒲生氏が近江の出身で、織豊政権の直系とも言える家であり、その配下にあった近江の穴太衆と呼ばれる石垣技術者集団によるものだろう。
秀行の父氏郷は、会津でも壮大な天守を築いているが、宇都宮城の支城であったこの城にも、本丸から突出した形で天守郭が存在し、重層ながら天守は一番標高の高いところにあって威容を示していたと思われる。
現在は佐白山の公園として、登山道や車道が整備され、千人溜と呼ばれていた広い区画に駐車場が整備されていた。城跡の天守台には佐志能神社があって、当時の建造物は無くなっているものの、古城の趣が漂い、散策し甲斐のある城である。また、天守郭からは、笠間市街から遠方までを見渡せ、なかなか良い景色だった。
城内に残存する建物は無いが、明治期に払い下げられた建造物の中で、本丸にあった八幡櫓と城門は移築され、麓の民家や寺にあるという。時間の関係で探索はできなかったが、時間のある人にはお勧めである。
最終訪問日:2001/9/28
北関東では珍しい石垣の城で、関西ではよく見る城の雰囲気ではあるんですが、土の城が多い土地柄の中では逆に新鮮でした。
後で調べると、寺のお堂になっている八幡櫓が城の櫓そのままみたいなので、見ておきたかったですね。