日本三大水城に数えられる城で、別名吹揚城ともいう。
豊臣政権末期から、いち早く家康に接近した藤堂高虎は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍方の重要な大名として働き、戦後に伊予半国20万石を与えられた。
それまでの東予における拠点は、今治から南東約5kmにある国分山城であったが、「宗国史」に地勢卑窄とあったように、高虎は後背の平地の広さや水運を活用できる立地など、城下の発展性を考えて、今治に新たに築城することを決めたとされる。
この辺りは、経済的観念の発達した地域であった近江出身の武将らしい所だが、泰平へ向けた時代の流れでもあったのだろう。また、今張だった地名を今治に変えたのも高虎で、治の字に、領地の中心となる新城を築くことへの心意気が見える。
築城が始まったのは、慶長7年(1602)からであったが、この頃は、高虎自身が家康の命じる各地の築城工事に携わっていたため、多忙で直接指揮は執らなかったようだ。実際の普請は、関ヶ原の合戦の際に増田長盛の重臣として大和郡山城で見事な対応を見せたことで高虎に高禄で登用された、渡辺勘兵衛了が奉行を務め、同9年(1604)に完成させている。
同13年(1608)になると、高虎は、上記の築城などの功によって伊勢8郡と伊賀の領主へ加増転封となったが、今治は飛び地として残り、高虎の養子高吉が城代を務めた。だが、五層の天守は、この時に丹波亀山城へ移築されたという。
寛永12年(1635)に久松松平定房が3万石で入部すると、4万石、3万5千石と変遷しつつ維新まで続き、幕末には早くから軍制を西洋式に改めるなどの素地があったためか、親藩ながら朝廷側に早くから立っている。このため、久松松平宗家の松山城が接収を受けたのに対し、今治城は攻撃や接収などの被害には遭わなかった。
だが、新政府側の意向を汲んだためか、廃城令前の明治2年(1869)10月には早くも破却が始まり、城内の大木などが切り倒され、櫓などの建物も入札に掛けられて取り壊されたという。
城の構造は、西方向を欠いた方形に近い主郭内部に、石垣で区画された本丸と藩主居館のある二ノ丸、そして三ノ丸があり、三ノ丸に大手口である鉄御門と、馬出口と呼ばれた搦手の山里門が設けられていた。ただ、表門も出た先が堀で区画された馬出となっており、高虎が他の城でも多用した構造が見られる。
また、主郭石垣の基底部は、もともと海浜で地盤が弱い為に犬走りが設けられて高石垣を支えられるようになっており、津城と同様にこれも高虎の築城らしい工夫だ。
主郭の外側には、内堀を始めとして、海水が流入する3重の堀を設けて堀と堀の間の郭には武家屋敷を置き、水城らしく舟入りを設け、外堀より外側に城下町が広がっていた。絵図には、現在の蒼社川である惣社川が南に、別宮から流れ出る川が北側に描かれており、当然のことながらこれらの川も防衛線として意識されていたと思われる。
現在の城は、明治以降の都市開発によって城域の大部分が市街地化しており、外堀の一部と内堀より内側が残っているのみだった。主郭部分の石垣は健在であったが、天守を始めとした各櫓の再建の際に積み直されているように見え、往時のままではないようだ。
今治城には20棟の櫓と9つの門があったとされるが、現存のものは無く、主郭部分に天守と山里櫓、武具櫓、御金櫓の4つの建物、鉄御門と山里門の2つの門が復元されている。また、山里口は往時は木橋であったが、現在は土橋となっていた。
今治城の天守は、一次資料が無く、そもそも実在自体に議論があるのだが、昭和55年(1980)に建てられた現在の天守は、他の本丸の櫓と多聞で繋がっていた本丸北隅櫓の場所にあり、本丸中央部とされる推定位置とも違う。また、丹波亀山城の天守が層塔型であったのに対し、模擬天守は望楼型であり、史料を参考にしたという割には相違が多い。
この辺りは、歴史を少しかじっている人間からするとやや残念に思えるのだが、白壁の天守が水を満々と湛えた堀に映えるのも確かで、景観を見ると、それなりに許せてしまう。
堀から少し北西に行けば、すぐに道が海へと突き当たり、堀では海魚の釣りをしている人がいるなど、水城らしい趣がいたる所で感じられる城だ。訪れた時が曇天であったため、天守からの景観は抜群というほどではなかったが、それでも海の眺めが広がり、しまなみ海道までが見渡せた。これが新緑の頃ならば、青々とした瀬戸内の風景が広がり、素晴らしい眺望になるのだろう。
最終訪問日:2008/10/23
海と天守の構図が映えるという、典型的な海城でした。
海が近いせいか、のんびりした雰囲気もいいですね。
今治市にもう少し頑張ってもらって、本丸の隅櫓と多聞を復元して欲しいところですが、さすがにこれは財政的になかなか難しいでしょうか。