生子山城は、南北朝時代の細川氏侵攻時に、南朝方の越智俊村が設けた砦に始まるという。ただ、細川氏の伊予侵攻は幾度かあり、具体的にいつ頃の築城かはよく分からなかった。また、一説には、一条通村による築城という説もあり、後述の松木景村による築城説もある。
生子山城に籠ったという越智氏は、有名な大和の越智氏ではなく、古代に伊予で勢力を持っていた越智氏の末裔だろう。城からすぐ西の瑞應寺の由緒には、文安5年(1448)に生子山城主松木景村が瑞應寺を建立したとあるが、この松木氏は越智松木氏と呼ばれることもあり、この頃までに越智から松木へと名字を変えていたようだ。その一方で、松木氏は前述の一条通村の子孫とする説もあり、ややこしい。
だが、いずれにしても通字を村として考えれば、俊村や通村は、景村や戦国末期の当主安村の祖という推測が成り立つ諱ではあり、越智氏と一条氏は同族ということも考えられるのだが、いずれにしても、松木と名乗る以前のことはある程度の憶測ができるという程度で、はっきりしないというのが実情なのだろう。
室町時代の宇摩郡と新居郡は、南北朝時代の河野氏と細川氏の和睦により、当初は河野予州家が名目上の領主となったが、実質的には細川氏が支配しており、後には名実共に細川氏の支配となった。そして、松木氏も、河野氏や細川氏に従っていたと思われる。
その後、細川家臣として備中守護代を務めていた備中石川氏の庶族が高峠城に入り、細川氏の衰退と共に独立的な勢力を培うようになると、他の新居郡の諸将と共に次第に石川氏を支えるようになったと思われ、さらに石川氏の家臣であった金子氏が実質的な権力を握ると、これを盟主とするようになったようだ。
金子氏が隆盛となった頃の松木氏の当主としては、安俊やその子安村の名が確認でき、安村は、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐の戦いのひとつ、天正の陣で討死している。
この戦いは、小早川隆景率いる約3万の軍勢が新居郡に上陸し、金子元宅が実質的に新居や宇摩の諸将を率いて籠った高尾城に押し寄せ、野々市原で決戦を行い、伊予勢が壊滅したという戦いであった。つまり安村は、松木軍の主力を率い、生子山ではなく元宅に従って高尾城に籠り、そして討死したのである。
従って、生子山城には、当然ながら留守の兵しかおらず、野々市原の決戦の数日後に押し寄せた小早川勢に、家臣鈴木重保ら30余名が守る生子山城は成す術無く落城したとも、留守兵が退散して開城したともいう。そして、主の居なくなった城は廃城となった。この時の話として、馬を米で洗う白米伝説が伝わっており、全国各地に伝わる落城譚と同じような形の民話として残っている。
「日本城郭大系」には、かつての精錬所の煙突がある山を生子山城としており、生子橋の説明板にも煙突山が生子山との記述があったが、煙突山の削平地は出丸的な場所で、別子銅山記念館の方によると、生子山城の主郭はもう少し奥の山にあるらしい。新居浜の史跡などを解説した本を見せてもらったが、城は別子銅山記念館後背の一連の山塊の最高部、標高約300m地点にあり、三角形の頂上部の削平地を本丸に、その1つの頂点から峰に沿って細長い形の二ノ丸、そしてその先に同じく細長い三ノ丸があるという構造のようだ。形からすると、長野の真田氏本城を連想させるような形である。
ただ、国領川沿いの県道47号線から山へ入るような道が全く見当たらず、記念館の方も、西谷川沿いの登山道を登った事があるが、城跡へ行くような獣道は覚えがないということだった。後で調べたところによると、山根公園の後背にある山積神社の奥宮から入る道があるようだ。
最終訪問日:2008/10/23
先にエントツ山に登ってから別子銅山記念館で生子山城の話を聞き、ざっとは探してみたんですが、城に入る道が見つけられませんでした。
城への道が後で調べて分かったので、また機会があればリベンジしたいお城です。
ついでに別子銅山にも行ってみたいですね。