
松尾城南側郭群の最高部に建つ楡井頼仲の碑
志布志城を構成する4つの城の内のひとつ。主城である内城と共に、国指定の史跡となっている。
志布志の地は、古代氏族である大隅直の一族が住んでいたといい、平安時代には、国内最大の荘園である島津荘の外港として発展し、救仁院高浜荘とも呼ばれた。
一帯は、源平の争乱の頃には、安楽為成が地頭及び弁済使に補されていたようだが、為成は平家に与したようで、文治5年(1189)かその翌年の建久元年(1190)から為成に代わり、その兄である救仁院成直に地頭と弁済使が安堵されている。ただ、成直がどの程度志布志松尾城に関与したのかは、全く不明という。
島津荘を開発した平秀基が、どの系統の平氏であったかには諸説あるのだが、桓武平氏のひとつである薩摩平氏の出という説がある一方、成直と為成の兄弟も、一説に薩摩平氏の出ともいわれており、上記の説がもし正しいとするならば、成直と為成の兄弟は、秀基の同族として救仁院の権益を継承していたのかもしれない。

松尾城南側郭群の中腹の段
ただ、救仁院氏がこれ以降も安定して支配していたというわけでは無く、建久2年(1191)頃には僧を殺害した咎で成直は職を没収され、島津氏初代の忠久に与えられている。そして、その忠久も、建仁3年(1203)の比企氏の乱に連座し、志布志一帯は北条氏の所領となったようで、その代官として、肝付氏庶流の救仁郷氏が治めていた。
松尾城が築城された具体的な時期は不明なのだが、最初に史料に見えるのは南北朝時代で、建武3年(1336)に肝付兼重の属城だった救仁院志布志城が、重久篤兼に攻め落とされた記録があるという。この志布志城が、松尾城のことである。
その後、城主として楡井頼仲という武将が在ったことが見えるが、楡井氏は信濃の村上源氏の出身であり、いつ頃にいかなる理由で志布志に入部したのかは、はっきりとしていない。
頼仲は、興国2年(1341)か翌年頃に薩摩へ入った懐良親王の号令に応じて南朝方として活動しており、この頼仲の動きに対し、北朝方の畠山直顕が、正平3年(1348)に同じく北朝方の島津貞久と共同で志布志城を攻撃したが、頼仲は兼重と連携して城を保ったという。

松尾城南側郭群の最高部東側の削平地と虎口と思しき地形
だが、同6年(1351)には、再び直顕や禰寝清成らに攻撃され、この時は落城している。この後、頼仲は南九州を転戦するのだが、拠っていた胡麻崎城が落とされるなどしたため、再び志布志城に入り、延文2年(1357)2月に落城して自刃した。
頼仲の没後、松尾城には、島津一族で救仁院を本拠とした新納実久が入る一方、内城は、島津氏と対立していた直顕が掌握したとされており、内城の史料上の初見はこの時となる。
両者の対立は深刻で、同年中には直顕が実久を攻めており、実久は貞久の四男氏久と共同してこれを退け、さらに内城をも掌握したようだ。この翌年、南朝方の重鎮菊池武光が志布志に来往し、同志であった頼仲の墓を参っているが、これは、島津氏が直顕との対立により、一時的に南朝方に転じていたためと考えられる。
この後、貞治4年(1365)頃から大隅守護となった島津貞久が内城に入城し、20年前後に渡って本拠としているが、実久もそのまま志布志に在ったとされ、氏久の重臣として大隅経営に参画していたようだ。その頃の細かい内情は不明だが、内城が島津本宗家の城として位置付けられた一方、支城となった松尾城は、実久が最初に入城した城ということもあって、そのまま実久の城として任されていた可能性が高いと思われる。

松尾城北側の削平地を裏側から見上げる
氏久が鹿児島に戻ると、実久が内城を含む志布志城の城主となり、両城を一体的に運用したと見られ、新納氏の累代や、天文7年(1538)からの豊州島津家の時代、永禄5年(1562)からの肝付氏の時代、天正5年(1577)からの島津家臣鎌田氏の時代と、戦乱を重ねていく間に内城の拡張と新城、高城の築城が行われていった。
こうして、志布志城は松尾城を含めて広大な城域を持つ城になったのだが、天正15年(1587)の秀吉の九州征伐に島津氏が降伏すると、その城割政策の対象に松尾城が含まれ、破壊はされなかったものの城としての役割を終えている。
松尾城は、北側から南へ伸びる丘陵の先端に築かれた山城で、その名の通り峰の尾を城域とした城だ。城にはピークが2ヶ所あり、南側は狭く、北側は広い削平地となっているが、その間の鞍部は人工的なものか、掘り切ったものなのかは判別できなかった。ただ、遠景で見る限りは、規模からして自然地形の可能性が高そうだ。
また、鳥瞰図を見ると、南側のピークに3区画とその南の中腹に2区画と段郭、南北のピークの鞍部に1区画、北側のピークに3区画の郭が確認できる。

松尾城と内城の鳥瞰図
城への目印としては、志布志小学校が分かりやすい。小学校の辺りから西へと出ている道を少し進むと、城を示す標柱が建っており、そこからすぐの所はもう垂直の堀切が切られている城域である。
訪れた時は、堀切の所に倒木があって道が塞がれており、なんとか枝を掻き分けて登ったのだが、途中、2ヶ所の削平地が見られ、登り切った南郭群の最上部は、僅かに段差のある2段構成となっていた。ただ、その規模自体は小さい。この最高部の周囲には土塁が見られるのだが、どういう機能があったのか、その土塁の虎口を挟んだ東側に同高の小さな郭もあった。
ただ、最高部から鞍部を挟んで北側にあるはずの、主郭にあたると思われるかなり大きな削平地へは、そこから向かう道が無いようだ。北側の郭の北側には、崩落止めの大きな擁壁があり、その保守用の階段を登って北の削平地へ行けそうだったのだが、擁壁のすぐ下の民家の人に聞くと、藪で入れたもんじゃないという事だったので、散策は諦めた。
最終訪問日:2015/10/17
全体的には郭の規模が小さく、支城という雰囲気が強かったですね。
最大の郭に行けなかったので、その規模次第では印象が変わったのかもしれませんが。
どちらにせよ、内城と比べると整備が進んでおらず、国の史跡なのにちょっともったいないお城でした。