Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

クッチャロ湖

薄暮のクッチャロ湖

 大沼と小沼、その2つを結ぶ水路状の地形からなる汽水湖で、離島を除いた本土では最北端の湖。

 湖の周囲には、複数の沼と河川があり、北と西は丘陵、東は砂丘によって区切られ、南には湿原が広がっている。環境省の資料によれば、周囲30.1km、面積16.07km2で、海跡湖だけあって最大水深は2.5mと非常に浅い。また、国土地理院の平成26年(2014)のデータでは、面積は13.40km2とあり、やや差異がある。

 クッチャロ湖と、日本最大のカルデラ湖である屈斜路湖は、名前が似ているが、どちらも語源は同じで、水の流れ出る所という意味のアイヌ語であるトークッチャロから来ているという。

 だが屈斜路湖は、釧路湿原に注ぐ釧路川という大河の源流になっているのに対し、クッチャロ湖から流れ出る湖水は、クッチャロ川から頓別川に出てすぐ海に達するため、湖から川に流れ出るというよりは、海に直接流れ出るというイメージだろうか。

 この湖周辺は、コハクチョウの中継地として知られ、冬にはその姿を求めて多くのカメラマンも訪れる湖で、カモ類も非常に多く飛来し、オオワシやオジロワシといった絶滅危惧種も見られるという。そのため、周囲一帯は鳥獣保護区に指定されているほか、平成元年(1989)7月6日にラムサール条約登録湿地にもなっている。

 クッチャロ湖は、厳冬期には完全に氷結するが、オホーツク海への出水口である頓別川の改修工事以来、海水の流入量が増加して氷結期間が短くなったという。また、渡り鳥に給餌をするようになったことで、湖を中継地ではなく越冬地にして南へ渡って行かなくなった鳥もいるようだ。

 訪れたのは夏だったため、当然ながら渡り鳥の姿は無かったが、陽の落ちた湖岸は視界がとても広く、雄大な北海道の自然そのままの姿を見せていた。

 湖の東岸沿いにはキャンプ場があり、思わず予定外のキャンプをしようかと思うほどロケーションが良い。また、このキャンプ場からは市街地も割合近く、付近には温泉もあり、キャンプ場の立地場所の条件としてもかなり良く、平日にもかかわらず結構多くの人が利用していたのも頷け、また、羨ましくもあった。

 

最終訪問日:2003/7/22

 

 

湖岸にあったトイレに流れる音声は、そこだけに喧騒感があって、ちょっと景色とは合ってないなという感じでした。

でもキャンプ場は抜群で、こんな場所でゆっくりと過ごしたいものです。

 

ねじめ温泉

ねじめ温泉の温浴施設ネッピー館

 根占港のすぐ近くにある温泉。温浴施設は、ネッピー館という名前である。

 ねじめ温泉の源泉は、地下1203mから汲み上げられるナトリウム-塩化物強塩泉で、茶色く濁っており、強塩泉と付くことから解るように、舐めると海水のように塩辛い。また、蒸発残留物が1gを越えると比較的成分の濃い温泉といわれるが、ねじめ温泉の残留物は、驚異の37.88gである。その主な内訳は、塩化物イオンが約19g、ナトリウムイオンが約10g、マグネシウムイオンが約1g、カルシウムイオンが865mgと、塩素とその化合物由来の成分で占められ、かなり塩辛い温泉というのに納得がいく。

 また、湧出量は表記が無かったが、相当豊富なようで、ネッピー館では、ほぼ掛け流しの状態で湯が湯船からかなり溢れている状態だった。

 錦江湾沿いという、阿多カルデラの一角にある温泉であるため、温泉の熱源は火山性のマグマと思われ、火山の恵みのひとつなのだろう。湧出温度は33.8℃で、ネッピー館の浴槽の温度から考えると、必然的に加温だと思われる。

 フェリーなんきゅうの船の時間が合わず、かなりの空き時間ができたため、港からすぐ見えるネッピー館を訪れてみたのだが、濃い成分の温泉を味わえ、空き時間を有意義に過ごすことができた。

 ネッピー館は、ごく標準的な温浴施設で、露天風呂が1ヶ所と数種類の内湯があるというシンプルな構造ではあるが、温泉成分がかなり独特であるため、施設よりも単純に温泉を愉しむ温浴施設となっている。

 

最終訪問日:2018/10/14

 

 

フェリーなんきゅうの時刻表を読み間違って、フェリーじゃない方の船の時間に合わせて移動したので、1本分まるごと時間が余るという失態!

その時間をネッピー館に救われました。

予定を詰め込みがちですが、旅先でこうやってのんびりするのもいいですね。

 

屈斜路湖

 屈斜路湖の名前の由来は、アイヌ語で川の流れ出すところを意味するクッチャラという語で、この流出口付近の集落の名クッチャロに字を当てたといわれ、実際に釧路湿原を潤す釧路川が流出河川となっている。

 屈斜路湖は、日本最大のカルデラである屈斜路カルデラに水が溜まったカルデラ湖であり、その嚆矢は、約40万年前から約3万年前まで繰り返された噴火活動という。

 その活動の中で、10~13万年前頃の巨大な噴火によってマグマが放出され、マグマの溜まっていた場所が空洞となり、その部分が陥没して屈斜路カルデラが形成された。そして3万年前頃には、その陥没部分に水が溜まり、カルデラ湖となったのが古屈斜路湖である。多くのカルデラ湖がそうであるように、最初期の古屈斜路湖は、ほぼ円形だったようだ。

 その後、2万年前~1万年前頃には、湖の東側で古期アトサヌプリ火山や摩周火山が活発化したため、カルデラ湖の東半分が埋められ、現在のそら豆型の形となった。

 湖の周囲は56.8km、面積は79.54km2もあり、本州の宍道湖とほぼ同じ大きさで、宍道湖よりひとつ上の日本6位の面積を持つ。この大きさは、阿寒国立公園内では、もちろん最大であり、道内でもサロマ湖に次いで2番目の大きさを持ち、カルデラ湖としては日本最大という。また、湖上に浮かぶ中島も、周囲が約12kmあり、こちらも淡水湖の島としては日本最大である。

 ちなみに最大深度は、カルデラ湖らしく117mもあり、湖面標高の121mとほぼ同じなのだが、こちらは同じ北海道の支笏湖や摩周湖、洞爺湖などと比べると浅く、半分や3分の1程度の深さしかない。

 湖には、現在はヒメマスを始めとした10種類あまりの魚が生息しているのだが、戦前の昭和4年(1929)と同13年(1938)に、湖底地震などで湖水が酸性化して生物が全滅したという時期があり、生物にとっての火山活動が、いかに大きな影響を与えるかというのを如実に表している湖でもある。

 現在は、流入する河川の水によって酸性度が下げられ、生息していた生物もある程度戻っているという。また、魚以外では、ミンミンゼミの生息の北限ということが知られている。

 同じ弟子屈町内の摩周湖と同様、典型的なカルデラ湖なのだが、霧の摩周湖と呼ばれて神秘的な佇まいを見せる摩周湖に対し、屈斜路湖の東岸には外輪山が迫っておらず、砂湯や川湯温泉など多数の温泉やキャンプ場があり、マリンスポーツも盛んで、リゾート地という雰囲気があるのが対照的だ。これも、この湖の特徴のひとつだろうか。

 訪れた時が夏だったため、周囲の山の緑と湖面の青が陽光によく映える開放的な景色だったが、冬は湖面が凍結し、膨張によって割れた氷が直線状に隆起する御神渡りという現象が見られ、白鳥が飛来する場所でもあるという。この他には、クッシーと呼ばれる巨大水竜の目撃談もあるが、その真偽はともかく、何かが棲んでいそうな雰囲気を持つ雄大な湖というのは間違いない。

屈斜路湖の眺め

 

最終訪問日:2003/7/24

 

 

訪れたのが夏ということもあって、なんだか穏やかで陽光溢れる開放的な湖のイメージでしたね。

何かのCMのように、カヤックに犬を乗せて漕ぎ出したくなるほどに。

でも、冬に来ると、全く違う印象なんでしょうね。

それはそれで、いつか見てみたいものです。

 

指宿温泉

砂蒸しを体験できる砂むし会館砂楽

 薩摩半島南東端の温泉。砂蒸しで知られる摺ヶ浜温泉が圧倒的に有名であるが、周辺一帯の温泉を総称して指宿温泉と呼ぶ。従って、一般的には単に指宿温泉と呼ばれているが、正確には温泉郷と呼んだ方が正しいのだろう。

 指宿は、かつては湯豊宿と記されるほど、容易に泉源が見つかる温泉郷で、自噴や汲み上げをのものを合わせると、使用されている源泉は約500ヶ所も存在する。

 その水源は、鰻池や池田湖の淡水、雨水、それに錦江湾の海水で、それが地中に染み込んで阿多カルデラのマグマによって加熱され、温泉になるという。これらの数多くの源泉が、それぞれ観光用や産業用に活用されている。

 指宿温泉の歴史は、江戸時代以前に遡るのだが、古くは湿原に点在する温泉を僅かに利用するのみに留まっていたようだ。本格的な活用は、近世に入った江戸時代からで、元禄年間(1688-1704)には摺ヶ浜の砂蒸しの記録が見え、以降は周囲の温泉も開発されていった。

 指宿温泉には、数多くの源泉があるため、その泉質も様々なのだが、海水がその水源のひとつであることから、ほとんどがナトリウム-塩化物泉である。湧出温度は50℃から60℃が多いが、自分が宿泊した宿では78.8℃という高温で、中には100℃に達する源泉もあるという。ちなみに、総湧出量は毎分約83,000Lにも及び、まさにケタ違いである。

 指宿温泉で有名なのは、やはり摺ヶ浜の砂蒸しだろう。摺ヶ浜では、源泉が近い場所では砂が高温になっている場所があるのだが、その高温の砂を利用し、着衣したままその砂に埋まって体を暖めるのが、砂蒸しという温浴法である。

 訪れた時は、砂蒸しを味わうのに、公営の砂むし会館を利用したが、各宿泊施設にも設備があり、摺ヶ浜を自分で掘っても可能という。砂蒸しを実際に体験してみると解るが、想像したよりかなり熱く、また、温泉の湿気を含む砂がかなり重くなっており、その圧迫感がやたら印象的であった。

 

最終訪問日:2018/10/15

 

 

全身を分厚いカイロに包まれたような熱感の中、海の風を汗の浮き出た顔で受けるのが、とても心地よかったですね。

15分から20分ほどでしたが、他ではなかなか体験できない、貴重で愉しい時間を過ごすことができました。

遠いのでなかなか機会が無いのですが、是非また訪れたいですね。

 

沓形岬

沓形岬の表示と詩碑

 鴛泊と共に、利尻島の玄関口となっている沓形港のすぐ近くにある岬で、円形に近い島の海岸線から西に張り出しており、利尻島の最西端となる。沓形出身の作詞家時雨音羽の書いた「出船の港」という曲の詩碑が建てられており、その歌詞の「どんとどんと波乗り越えて」から、地元ではどんと岬とも呼ぶ。

 沓形の語源は、アイヌ語でクツカンタやクチカンタ、クツカンナイと呼ばれていたことからだが、帯状に岩の表れた崖の上や、崖の上の川など、それぞれ微妙に解釈が違ちっており、正確な所は不明のようだ。

 岬に建つ沓形岬灯台は、初点灯が昭和27年(1952)5月と、やや遅い設置となった灯台で、当初は沓形埼灯台という名称であったが、昭和38年(1963)6月に現在の名に改称された。ちなみに、現地に正確な位置の表記が無く、地図読みでは北緯45度11分10秒、東経141度8分48秒に位置する。

 沓形港には、夏季に利尻島と礼文島を結ぶフェリーが発着しているため、港を利用する観光客が岬によく訪れるようで、岬周辺は広い公園として整備され、無料の休憩所もあった。ただ、近くに建つ灯台は、何の変哲も無い赤白のもので、灯台に関する案内板なども無く、この部分だけは観光の対象からやや外れているようである。

 岬にある展望台は、遠く海を挟んで礼文島を望みつつ、そのまま背後を振り返れば、雄大な裾野を持つ利尻富士がそびえ立っているという、すこぶる良好なロケーションを持っていた。当然の事ながら、360°カメラ以外では、この風景を1枚の写真に収めることができないのだが、これは現地でしか味わえない雄大さといったところだろうか。

沓形岬灯台と雄大な利尻山の稜線

 

最終訪問日:2003/7/22

 

 

自分が何よりも北に来たという感覚を持ったのは、距離を示す道標でした。

樺太への距離が、東京や鹿児島への距離と比べて、桁1つ小さいんですよね。

北海道の人にすれば当たり前かもしれないですが、ちょいとひとっ飛びすればロシア領に入ってしまうというのは、神戸に住む人間としてはとても非日常でした。

 

栞 ~鹿児島のお城終了~

訪れた鹿児島県のお城の作成を完了しました。

お城の数は全部で24城。

ここに栞を挟んでおきましょう。

離島をある程度入れようと思うと、縦長の地図になってしまいますね。

さて、神戸から遠い遠い鹿児島県ですが、関西から九州へはフェリーが充実しているので、意外と行きやすい県です。

おかげで、割と満遍なくお城を訪問できていますね。

強いて言うなら、県の中央部がちょっと手薄でしょうか。

戦国島津史に当てはめると、熾烈な攻防があった要衝大口城や、宮崎県側にはなるものの加久藤城や木崎原古戦場などが入って来る地域。

この辺りは、いずれまとめて行っておきたい所です。

それから、島津氏の鹿児島の本拠であった東福寺城と清水城、本拠繋がりで忠良・貴久父子が鹿児島復帰前に在城した一宇治城なんかも、是非行っておきたいですね。

お城に関しては、まだまだ行き足りない県です。

さて、お城の作成が終わりましたので、引き続き、その他のスポット作成へと進みましょう。

 

松尾城 (志布志松尾城)

松尾城南側郭群の最高部に建つ楡井頼仲の碑

 志布志城を構成する4つの城の内のひとつ。主城である内城と共に、国指定の史跡となっている。

 志布志の地は、古代氏族である大隅直の一族が住んでいたといい、平安時代には、国内最大の荘園である島津荘の外港として発展し、救仁院高浜荘とも呼ばれた。

 一帯は、源平の争乱の頃には、安楽為成が地頭及び弁済使に補されていたようだが、為成は平家に与したようで、文治5年(1189)かその翌年の建久元年(1190)から為成に代わり、その兄である救仁院成直に地頭と弁済使が安堵されている。ただ、成直がどの程度志布志松尾城に関与したのかは、全く不明という。

 島津荘を開発した平秀基が、どの系統の平氏であったかには諸説あるのだが、桓武平氏のひとつである薩摩平氏の出という説がある一方、成直と為成の兄弟も、一説に薩摩平氏の出ともいわれており、上記の説がもし正しいとするならば、成直と為成の兄弟は、秀基の同族として救仁院の権益を継承していたのかもしれない。

松尾城南側郭群の中腹の段

 ただ、救仁院氏がこれ以降も安定して支配していたというわけでは無く、建久2年(1191)頃には僧を殺害した咎で成直は職を没収され、島津氏初代の忠久に与えられている。そして、その忠久も、建仁3年(1203)の比企氏の乱に連座し、志布志一帯は北条氏の所領となったようで、その代官として、肝付氏庶流の救仁郷氏が治めていた。

 松尾城が築城された具体的な時期は不明なのだが、最初に史料に見えるのは南北朝時代で、建武3年(1336)に肝付兼重の属城だった救仁院志布志城が、重久篤兼に攻め落とされた記録があるという。この志布志城が、松尾城のことである。

 その後、城主として楡井頼仲という武将が在ったことが見えるが、楡井氏は信濃の村上源氏の出身であり、いつ頃にいかなる理由で志布志に入部したのかは、はっきりとしていない。

 頼仲は、興国2年(1341)か翌年頃に薩摩へ入った懐良親王の号令に応じて南朝方として活動しており、この頼仲の動きに対し、北朝方の畠山直顕が、正平3年(1348)に同じく北朝方の島津貞久と共同で志布志城を攻撃したが、頼仲は兼重と連携して城を保ったという。

松尾城南側郭群の最高部東側の削平地と虎口と思しき地形

 だが、同6年(1351)には、再び直顕や禰寝清成らに攻撃され、この時は落城している。この後、頼仲は南九州を転戦するのだが、拠っていた胡麻崎城が落とされるなどしたため、再び志布志城に入り、延文2年(1357)2月に落城して自刃した。

 頼仲の没後、松尾城には、島津一族で救仁院を本拠とした新納実久が入る一方、内城は、島津氏と対立していた直顕が掌握したとされており、内城の史料上の初見はこの時となる。

 両者の対立は深刻で、同年中には直顕が実久を攻めており、実久は貞久の四男氏久と共同してこれを退け、さらに内城をも掌握したようだ。この翌年、南朝方の重鎮菊池武光が志布志に来往し、同志であった頼仲の墓を参っているが、これは、島津氏が直顕との対立により、一時的に南朝方に転じていたためと考えられる。

 この後、貞治4年(1365)頃から大隅守護となった島津貞久が内城に入城し、20年前後に渡って本拠としているが、実久もそのまま志布志に在ったとされ、氏久の重臣として大隅経営に参画していたようだ。その頃の細かい内情は不明だが、内城が島津本宗家の城として位置付けられた一方、支城となった松尾城は、実久が最初に入城した城ということもあって、そのまま実久の城として任されていた可能性が高いと思われる。

松尾城北側の削平地を裏側から見上げる

 氏久が鹿児島に戻ると、実久が内城を含む志布志城の城主となり、両城を一体的に運用したと見られ、新納氏の累代や、天文7年(1538)からの豊州島津家の時代、永禄5年(1562)からの肝付氏の時代、天正5年(1577)からの島津家臣鎌田氏の時代と、戦乱を重ねていく間に内城の拡張と新城、高城の築城が行われていった。

 こうして、志布志城は松尾城を含めて広大な城域を持つ城になったのだが、天正15年(1587)の秀吉の九州征伐に島津氏が降伏すると、その城割政策の対象に松尾城が含まれ、破壊はされなかったものの城としての役割を終えている。

 松尾城は、北側から南へ伸びる丘陵の先端に築かれた山城で、その名の通り峰の尾を城域とした城だ。城にはピークが2ヶ所あり、南側は狭く、北側は広い削平地となっているが、その間の鞍部は人工的なものか、掘り切ったものなのかは判別できなかった。ただ、遠景で見る限りは、規模からして自然地形の可能性が高そうだ。

 また、鳥瞰図を見ると、南側のピークに3区画とその南の中腹に2区画と段郭、南北のピークの鞍部に1区画、北側のピークに3区画の郭が確認できる。

松尾城と内城の鳥瞰図

 城への目印としては、志布志小学校が分かりやすい。小学校の辺りから西へと出ている道を少し進むと、城を示す標柱が建っており、そこからすぐの所はもう垂直の堀切が切られている城域である。

 訪れた時は、堀切の所に倒木があって道が塞がれており、なんとか枝を掻き分けて登ったのだが、途中、2ヶ所の削平地が見られ、登り切った南郭群の最上部は、僅かに段差のある2段構成となっていた。ただ、その規模自体は小さい。この最高部の周囲には土塁が見られるのだが、どういう機能があったのか、その土塁の虎口を挟んだ東側に同高の小さな郭もあった。

 ただ、最高部から鞍部を挟んで北側にあるはずの、主郭にあたると思われるかなり大きな削平地へは、そこから向かう道が無いようだ。北側の郭の北側には、崩落止めの大きな擁壁があり、その保守用の階段を登って北の削平地へ行けそうだったのだが、擁壁のすぐ下の民家の人に聞くと、藪で入れたもんじゃないという事だったので、散策は諦めた。

 

最終訪問日:2015/10/17

 

 

全体的には郭の規模が小さく、支城という雰囲気が強かったですね。

最大の郭に行けなかったので、その規模次第では印象が変わったのかもしれませんが。

どちらにせよ、内城と比べると整備が進んでおらず、国の史跡なのにちょっともったいないお城でした。