Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

江ノ島

対岸の片瀬漁港から江ノ島の眺め

 湘南地方屈指の観光地。周囲約4km、面積0.38km2の島で、江の島とも書く。

 湘南海岸の沖に浮かぶ島だが、もともとは約2万年前まで本土と陸続きの台地だった。後に海食と地盤の変化によって切り離され、島となったのだが、現在は砂嘴によって繋がる陸繋島である。

 この砂嘴は、主に境川(片瀬川)を始めとする河川によって運ばれた土砂が潮の流れによって堆積するものであるが、河川の水量や流路の変遷、海流の変化などによって時代時代で場所が変わり、常時陸続きだった時もあったという。現在は、満潮時に冠水する状態で、干潮時は陸続きとなる。

 江ノ島は、古来より景勝の地であったが、海食崖や岩窟などもあることから、修行場としても知られた。修験道の開祖とされる役小角や、各地に修行伝説を残す空海も、江ノ島で修行したと伝えられている。

 また、江島神社の社伝によると、それらの伝説よりも古い欽明天皇13年(552)に、島の南の洞窟に勅命で宮が建立されたという。その後、頼朝の命によって、頼朝の伊豆配流時代の知己である文覚上人が養和2年(1182)に弁才天勧進し、以降は弁天信仰の霊場として支配者階級から尊崇と保護を受けた。

 江戸時代になると、弁天信仰が庶民にも広がり、江戸近郊の参詣地、行楽地として人気を集め、宿坊が軒を連ねている様子が多くの浮世絵に描かれている。

 観光地化の流れは明治以降も続き、江ノ島電鉄の開業や、島全体が2mほど隆起したという大正12年(1923)の関東大震災を挟んで小田急江ノ島線の開通があり、東京近郊の観光地として人気を集め、両鉄道は多くの乗客を江ノ島へ運んだ。また、海岸沿いに現在の国道134号線となる道路が整備されたのも、この頃である。

 戦後には、東京オリンピックのヨットレース会場に選ばれたことから、島の東側を埋め立ててヨットハーバーが造られ、島の面積は大幅に拡大した。これ以外にも、島に様々な施設が建てられ、観光の島として今も多くの観光客を引き寄せている。

 江ノ島は、前述のように古くからの宗教の島で、その頃から連綿と続く寺院などの宗教施設と共に、近代になってから建てられた施設が雑然と存在する島であり、遠くから見ただけでも、江戸時代と昭和と現在が混じったような独特な混在感があって面白い。

 

最終訪問日:2013/5/17

 

 

時間の都合でさっと立ち寄っただけだったんですが、春の平日というのに人が多く、これが夏休み期間ともなれば恐ろしいほどの人が訪れるんでしょうね。

何より目に付いたのは、駐車場へと繋がる唯一の大きな道の両側にずらりと並んでいたバイクで、バイク乗りとしてはなかなか壮観でした。

 

稲村ヶ崎

 鎌倉の中心部の南西、江ノ島の東約3.5kmにある、相模湾に突き出した岬で、稲村ガ崎と表記されることもある。「太平記」や、映画の「稲村ジェーン」で有名。

 稲村ヶ崎は、刈り取った稲穂が積み重ねられた姿に似ているので名付けられたという。積み重ねた稲穂は稲叢と書いて同じくイナムラと読むことから、そもそもは稲叢ヶ崎と書いていたと思われる。また、万葉集に出てくる見越しの崎を稲村ヶ崎に比定する説もあり、鎌倉幕府が置かれる前から知られた場所であったようだ。

 稲村ヶ崎が有名になるのは、鎌倉時代末期である。

 元弘元年(1331)から始まる元弘の乱の終盤、同3年(1333)に上野国で挙兵した新田義貞が、各地の幕府軍を破りながら南下し、鎌倉入りを目指して藤沢まで来たのだが、幕府軍は7ヶ所の切り通しの防備を固めたため、それを破ることができなかった。そこで、守りの薄い稲村ヶ崎を押し渡って鎌倉入りを果たし、幕府を滅亡に追い込んだという。

稲村ヶ崎に建つ種々の碑

 太平記では、この時に義貞が太刀を海中へ投じ、それによって龍神が潮を引かせたという描写をしており、太平記の名場面のひとつとなっている。この伝説に関しては、各種の検証によって稲村ヶ崎突破の真偽や日付などに様々な議論はあるのだが、太平記によって稲村ヶ崎が有名になったというのは、間違いない話だろう。

 その後、江戸時代の幕末には、外国船に対する砲台場が造られ、太平戦争時には、潜水特攻兵器である伏龍の地下基地が置かれたり、本土決戦時の沿岸防衛部隊による横穴陣地が構築されたりするなど、相模湾に突出する陸地として、陸戦の要衝よりも海防の拠点としての色が濃い時代が続いたが、鎌倉時代から軍事における重要地点というのには変わりが無かった。

 現在は、その軍事色も無くなり、国道より海側の部分が公園化され、鎌倉湘南観光のスポットのひとつとなっている。

稲村ヶ崎から江ノ島の眺め

 七里ヶ浜の東に、相模湾へ少し突き出している丘が見えるが、これが稲村ヶ崎で、西側から見ると、稲村ヶ崎を境に海岸線が見えなくなっており、七里ヶ浜から続く海岸線が稲村ヶ崎で一旦区切られたような感じだった。

 地形的には、切り通しのある極楽寺辺りの丘陵部がそのまま海まで延びたような感じで、昭和3年(1928)に切り通された国道134号線の開削部分が無ければ、義貞が苦労したように、鎌倉方面への巨大な壁のままだったのだろう。ただ、現在でも、七里ヶ浜稲村ヶ崎国道134号線は、路肩の少ない片側1車線の道路で、渋滞が頻発しており、車にとっては鎌倉方面への壁と言えるかもしれない。

 

最終訪問日:2013/5/17

 

 

鎌倉時代の末期も、太平洋戦争の時も、軍事に関わる場所でしたが、今は穏やかな公園となっていました。

稲村ジェーンの映画以降は、そのイメージが強いのかもしれませんね。

江ノ島の景色を見つつ、稲村ジェーンとBack to the Future 3のどちらを観るか迷ったのが、何故か思い出されました笑

 

安房崎

展望台から見る安房灯台と房総半島

 城ヶ島の南東端の岬で、北緯35度7分45秒、東経139度37分48秒に位置する。読み方は、アワザキ、アワサキ、アワガサキなどいくつか見られるが、神奈川県のホームページではアワザキとあった。

 城ヶ島は、全体的に台地となっている島だが、南東側の安房崎周辺は低くなっており、岩場が剥き出しになった磯である。大正12年(1923)の関東大震災の際、城ヶ島周辺は、7.5mも隆起した後、徐々に沈降し、最終的に1.4mほどの隆起で落ち着いたらしいのだが、このような積年の地盤活動と海食作用によってできた地形なのだろう。

 安房灯台は、ほんの数mの高さの岩場に建っているが、同じ島に建つ灯台でありながら、台地の上部に建つ城ヶ島灯台とはかなり雰囲気が違い、写真を見ただけでは同じ島の灯台とは思えないほどだ。

 ちなみに、城ヶ島で最も早く灯火設備が建てられたのは、この安房崎の方で、慶安元年(1648)に三崎奉行安部次郎兵衛が設けた烽火台が、その最初である。

 城ヶ島には釣り人が多いが、安房崎周辺は磯釣りのポイントとなっているようで、日暮れが近い時間であったにもかかわらず、まだ多くの人が釣りを楽しんでいた。そこだけの風景を切り取ると、港にあるようなシンプルかつ古風な灯台の形も相まって、まるで港の防波堤で釣りをしている人達を見ているようで面白い。

 展望台から安房崎を眺めれば、遠くに房総半島が霞みながらも見え、そのまま船があれば渡ってしまいたい気持ちにすらなる。この景色を見ると、三浦半島の水軍や漁師といった海の人達は、自分が思っていたよりも、遥かに房総半島が身近だったというのがよく解った。城ヶ島は、戦国時代に北条氏と里見氏との争いの舞台になった場所であり、それが実感として感じられる岬である。

 

最終訪問日:2013/5/17

 

 

改めて調べてみると、公園内に2代目が稼働しているようですね。

しかも三浦大根がモチーフとか。

薄っすらと緑色が入っていて、まさに大根笑

ちなみに、岬から近い城ヶ島公園の駐車場は有料で、午後7時に閉門されるということなので、訪問時間には少し注意が必要です。

 

芦ノ湖

 富士箱根伊豆国立公園にある堰止湖で、箱根町のデータでは、周囲19km、面積6.9km2、最大水深43.5mの湖。

 箱根山一帯は、およそ40~50万年前に活動を開始した活火山である。その活動は今も続いているが、初期から中期にかけての火山活動によって、箱根山は約2700mもの標高を持つ成層火山へと成長し、周囲にも単成火山群を形成した。

 しかし、およそ18万年前に中心部が陥没して約10kmのカルデラと化し、以降はカルデラ内部で湖が生まれたり消滅したりを繰り返していたようだ。見ようによっては、このカルデラ湖が、芦ノ湖の先祖と言えるかもしれない。また、このカルデラ化では、明神ヶ岳や大観山などの古期外輪山を残した。

長尾峠から芦ノ湖の眺め

 その後、火山活動はカルデラ内部に限られるようになり、およそ8万年前から4万年前までの間は活発な活動が続き、爆発的噴火を幾度もしたという。この時の噴火に伴う陥没で残されたのが、浅間山鷹巣山などの新期外輪山である。

 約4万年前になると、神山や箱根駒ヶ岳などの中央火口丘で活動が始まり、これらの火砕流などで早川が堰き止められて仙石原一帯に仙石原湖ができ、さらにそれが2万2千年前頃になると、同様に分断されて先芦ノ湖と仙石原湖に分かれた。

 この先芦ノ湖が、約3千年前の山体崩壊を伴う爆発による早川の堰き止めで、拡大して現在の姿になったのが芦ノ湖である。

元箱根から弁天の鼻方向の芦ノ湖の眺め

 現在の芦ノ湖は、元箱根周辺と仙石原に繋がる部分がリゾート開発されており、複数の遊覧船も出ているなど、いわゆる箱根と呼ばれる観光地域の重要なスポットのひとつとなっているが、本格的に開発されたのは戦後の話という。このリゾート開発には、観光会社各社が参入し、昭和30年代(1955-64)中頃には、箱根山戦争とまで呼ばれたらしい。

 また、釣りのメッカとしても有名で、釣りを趣味としていた実業家赤星鉄馬が、味もよく釣りも面白い魚として、大正14年(1925)に日本で始めてブラックバスを放流したのも、この芦ノ湖である。

 その他には、復元された江戸時代の箱根関所跡や、箱根駅伝の往路ゴール兼復路スタート地点の前に箱根駅伝ミュージアムなどもあり、湖岸には興味深く見て回ることができる場所も多い。

 

最終訪問日:2013/5/18

 

 

訪れた時は、ゴールデンウィーク直後で、しかも午後6時を過ぎた時間というのもあったのか、湖岸は閑散としていて、ゆったり湖畔の空気を味わえました。

小田原から芦ノ湖へ向かう国道1号線を走っていると、箱根から下りてくる逆方向の道が大渋滞で、とめどない車列を見ながら、関東屈指の観光地である事をひしひしと実感しましたね。

ただ、芦ノ湖と富士山という組み合わせをばっちり頭に焼き付けて箱根を下りる予定だったんですが、厚い雲で富士山がほとんど見えず、それだけは非常に残念でした。

 

三増峠古戦場

 武田氏と北条氏の間で永禄12年(1569)に行われた、三増峠の合戦という山岳戦の古戦場跡。ミマセ峠と読む。

 戦国時代の中頃より、時には争い、時には和していた甲斐の武田氏と相模の北条氏であったが、それぞれ武田晴信(信玄)、北条氏康が当主を務める時代になると、駿河今川義元を加えてそれぞれが婚姻同盟を結び、有名な甲相駿三国同盟が成立する。

 この同盟により、それぞれ主敵を絞った戦略を採って領土拡張に成功するのだが、その途上、義元は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦において、信長の急襲によって落命してしまう。これによる今川領内の動揺や、信玄の信濃経略の完了、信長の台頭といった情勢の変化があり、信玄は次第に南下政策を志向し始め、ついに同11年(1568)には駿河へ侵攻したのであった。

 これに対し、今川氏との同盟を重視した氏康は、今川側に味方することを鮮明にし、両家は再び対立関係となったのである。

三増峠古戦場碑

 武田軍の駿河侵攻は、翌年まで幾度も行われ、今川氏へ援軍を派遣する北条氏を牽制するため、伊豆へも出兵が行われた。こうして今川氏は事実上大名としては滅び、武田氏が駿河の大半を、北条氏は領境を固めるべく東駿河を掌握したのだが、このような中で行われたのが、信玄による小田原城攻撃である。

 この行軍は多分に示威的で、鉢形城滝山城などを攻囲しつつも落とす事無く南下し、小田原城を包囲して挑発したが、北条軍が城を出てこないと知ると、信玄は4日ほどで軍を引き上げた。

 だが、鉢形城主であった氏康の子氏邦や同じく滝山城主の氏照は、6千とも2万ともいわれる軍勢で退路にあたるこの三増峠にて武田軍を待ち構え、戦国時代屈指の山岳戦である三増峠の合戦が勃発するのである。

現地にあった三増合戦の陣立図

 ただ、合戦の概要には諸説あり、不明な部分が多い。

 大まかには、信玄は山県昌景、小幡信貞の別働隊を発してそれぞれ韮尾根と津久井城に移動させ、自らの本隊は北条軍と対陣したという。緒戦は北条方が有利で、北条綱成の突撃によって左翼の浅利信種が討死するなどしたが、甲斐に退却すると見せかけた山県隊が、志田峠から北条軍を急襲すると、北条勢は互いの連携も取れず、津久井城の後詰も抑えられたままで総崩れになった、という流れである。

 一方、「甲陽軍鑑」では、三増峠に待ち構えていた北条勢は、信玄着陣の際には南西の半原山に移っており、一般的に小説などで語られる、峠で待ち構えた北条勢に武田軍が攻め掛けたという構図ではない。また、北条方の文書や軍記物は、退却する武田軍に北条軍が戦いを仕掛けたような記述となっており、退却する武田軍が三増峠近辺に布陣し、追撃する北条軍が戦いを仕掛けたというのが実際のところだろうか。現地の案内図でも、北条方が南から攻め寄せるような布陣図となっている。

 合戦に関する史料や文書、書状を見ると、戦闘は10月6日であったとも8日であったともされ、北条方の損害も3千2百余から数10人まで幅広いが、概ね北条方の敗戦を認めているようだ。

三増峠の合戦説明板

 各史料から見ると、北条方の先陣は、三増峠を封鎖することはせず、追撃の機会を窺いつつ小田原からの本隊の到着を待ったが、武田軍の小荷駄隊が退却の様子を見せたため、北条方の先陣が突っ掛け、そして返り討ちにあったというような状況が想像できる。これは、後の三方ヶ原の合戦の徳川軍誘い出しと同じような感じで、予定戦場に引きずり出す信玄得意の誘引戦術だったのかもしれない。

 この合戦は、規模としては決して小さくはないのだが、両家の規模からすれば、情勢にそれほど大きな影響を与える合戦ではなかった。ただ、信玄は北条氏や関東諸豪族に対して武威を示す事に成功し、北条氏は、武田家の脅威と、上杉家との同盟がうまく機能しないという事を理解したという側面があり、氏康死後の甲相同盟の再締結という大きな情勢の変化には、少なからず影響を与えたと見られている。

 三増峠の合戦は、三増峠を中心として大きな範囲で行われた合戦なのだが、古戦場碑は、愛川中学校の東北東約650mの田園の中に建てられており、付近にランドマークとなるものが無い。碑の前の道は、三増合戦みちという名前の道路となっているのだが、県道65号線の三増交差点から西へ折れればその道で、そのまま道なりに走れば到着することができる。

 

最終訪問日:2013/10/12

 

 

自分は、上のように行きやすそうな県道65号線から行こうとしましたが、三増合戦みちの表示を見落としたのか目立った案内が無く、そのまま三増トンネルを越えてしまったため、已む無く遠回りして、国道412号線経由で県道54号線から向かいました。

県道54号線の交互通行となる馬渡橋のすぐ南、県道から鋭角に分岐する坂を上り、愛川中を過ぎて道なりに進めば、約1kmほどで古戦場碑に着くことができます。

 

三浦道寸墓

 三浦道寸は、諱を義同といい、三浦氏の実質的な最後の当主である。

 三浦氏は、桓武天皇の第三皇子葛原親王の子か孫である高望王の系統で、一般に桓武平氏と呼ばれ、高望の庶子良文から始まったことから特に良文流という。この系統は関東で栄え、三浦氏を含む坂東八平氏と呼ばれる武士団を形作った。しかし、三浦氏自身は元は在地豪族で、平氏とするのは仮冒という説もある。

 三浦氏は、源八幡太郎義家の時代から源氏と繋がりがあり、後には平氏の家人となった鎌倉党の大庭氏に圧迫されるが、頼朝の挙兵時から一貫して味方し、鎌倉幕府草創の功臣となった。だが、幕府内の権力争いで、建暦3年(1213)に三浦一門の和田義盛が和田合戦で敗死し、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦一党が自刃したため、勢力を衰えさせてしまう。

 この時、同じく三浦党であった佐原義連の系統で、その孫の盛時が北条氏に味方し、辛うじて戦後に三浦惣領と三浦介の継承を許された。この盛時の系統が以後の三浦氏で、最初の三浦氏と区別して相模三浦氏と呼ぶ。

 道寸は、宝徳3年(1451)頃に父上杉高求と大森氏頼の娘との間に生まれた。この頃の三浦氏は、扇谷上杉家臣として当主時高が活動しており、時高から見て道寸は姪の子である。また、父高求は、高時の主君扇谷上杉持朝の次男であった。

 道寸は、やがて時高の養子として迎えられるのだが、これには2つの説があるという。

 1つ目の説は、最初は父高求が養子として家督を継いだものの、扇谷上杉家の内紛に乗じて上杉家を継ごうとしたために上杉姓に復し、道寸が時高の養子となった説で、2つ目は、道寸が三浦の血を継承する人間として、直接時高の養子になった説である。

 また、この後、時高と道寸は不和となり、道寸は一時三浦家を追われるのだが、これにも、時高に実子高教が生まれたために不和となって出奔したという説と、扇谷上杉家当主の定正に忠誠を誓う時高が、高求の動きに激怒して父子共々追放したという説があるようだ。

三浦道寸墓

 ただ、出奔説はもちろんのこと、追放説が本当だとしても、時高に実子高教が生まれている以上、根底にあるのは家督争いだったのだろう。

 三浦家を出た後、道寸は一時出家したようで、この時に初めて道寸を名乗っているのだが、経緯はどうあれ、やがて明応3年(1494)には三浦家家督を継承することになる。

 この家督継承の経緯にも諸説があり、一般には道寸派の三浦家臣と大森氏の後援を得て新井城に時高父子を滅ぼしたとされているが、大森氏は氏頼の病没直後で外に向ける余力が無かったため、道寸が時高没後の混乱に乗じて大規模な戦闘を行わず家督を奪い取ったという説もあるようだ。

 伊勢盛時(北条早雲)の主敵だったためか、家督継承までの道寸には様々な話が伝わっているが、大筋の事跡は判っているものの、詳細は定説を見ないというのが現状である。

 家督相続後の道寸は、扇谷上杉家臣として行動し、小田原城に籠もった大森氏や早雲の弟伊勢弥次郎の軍勢を救援していることが見え、この籠城戦があったと見られる明応5年頃には後の敵である早雲とは共闘関係にあったようだ。

 この共闘関係は、永正元年(1504)の立河原の合戦の頃まで続いているが、翌年に扇谷上杉家当主で定正の甥朝良が山内上杉家に降伏すると、早雲は独立色を強めて両上杉家と対立し、必然的に義同とも対立することになる。そして、永正6年(1509)から翌年にかけて、早雲は大規模な攻勢を仕掛けるのだが、扇谷上杉軍に阻まれ、逆に劣勢に陥ったようだ。この流れの中で、道寸は早雲が修復した鎌倉東部の住吉城を奪い、小田原城にも攻撃を仕掛けているが、反対に岡崎城を攻められてもいる。

 道寸はこの頃、嫡子義意に家督を譲り、岡崎城を整備して本拠にしていたようだ。義父時高の頃に奪った岡崎城へ道寸が移った時期ははっきりしないのだが、新井城に置いた義意が明応5年(1496)生まれで、その年齢や岡崎城を巡る情勢の逼迫という背景を考えると、やはり義意へ家督譲った時期に城も移ったと考えるのが妥当だろうか。

三浦道寸墓の説明板

 この後、劣勢となった早雲が扇谷上杉家と和睦したため、相模にも一時的に平穏が訪れた。しかし、2年後の永正9年(1512)には、早雲は再び三浦氏に対して大規模な攻勢を仕掛け、道寸は、岡崎城を落とされて住吉城に退き、この城で鎌倉合戦と呼ばれる幾度かの衝突を繰り返した後、やがて住吉城も支えられなくなって新井城へと退いている。

 新井城は、周囲を海に囲まれた断崖上の城であり、唯一の陸路である大手口の引橋を引いてしまえば難攻不落となるため、さすがの早雲も攻略には手間取り、扇谷上杉軍の援軍対策と糧道を絶つために玉縄城を築いて兵糧攻めを行った。そして、扇谷上杉軍の援軍として来援した道寸の娘婿太田資康の軍を玉縄城付近で破り、資康を討ち取って新井城を孤立化させたのである。

 道寸は、新井城で尚も粘り強く3年に渡って北条軍の攻撃を凌いだ。しかし、永正13年(1516)7月11日の北条軍の総攻撃で落城を悟り、これが最期と城門を開いて討って出た。死兵となった三浦軍は北条軍を打ち負かしたが、多勢に無勢、やがて道寸は城に戻り、切腹したという。また、道寸の嫡子で、85人力という怪力を誇った義意も、散々に北条軍を蹂躙した後、最期は討ち取られたとも自ら首を掻き切ったともいい、これによって名門相模三浦氏は滅んだ。

 ただ、次男の時綱だけは、城を落ち延びて安房へと向かい、正木郷を本拠として後の正木時通になったともいう。時綱に関しては伝説に近い不明確な話ではあるが、道寸も、その子らも、伝承や逸話の多い武将と言えるだろうか。

 道寸の墓は、三崎へと向かう県道26号線の油つぼ入口の交差点から油壺方向へ折れ、真っ直ぐ突き当たった所の右手にある。駐車場北側に新井城址碑があり、その付近から出ている、胴網海水浴場へ向かう遊歩道を少し下ると、右手に見えるのが道寸の墓だ。

 周辺には段郭の小郭や堀切のような地形があり、新井城の痕跡が残っている。墓の回りの石囲いはやや傾いていたが、墓は綺麗で、花も供えられていた。今でも道寸祭りという三浦一族の供養祭が執り行われ、笠懸などが披露されており、道寸の墓も地元の方が大事に供養しているのだろう。

 

最終訪問日:2013/5/17

 

 

北条早雲絡みの小説や軍記物を見ると、なかなかギラギラしたアクの強い武将として描かれている道寸ですが、お墓はひっそりとしていました。

この三浦半島を本拠として、遠く離れた伊勢原岡崎城まで進出していたんですから、相当有能だったんでしょうね。

隠れた名将だったと思います。

 

箱根関跡

 江戸幕府が、江戸城の内庭にあたる関八州と西国との出入りを監視するため、設けた関所。

 碓氷関、新居関(今切関)、福島関と並んで幕府に重視された関所で、広義では東海道脇街道にある川村関、谷ヶ関、矢倉沢関、仙石原関、根府川関の5つの関所を含んだ面的な監視機能として、箱根関と呼ぶこともある。

 箱根の山塊を越える街道は、鎌倉幕府成立以前は北の足柄峠経由であり、箱根峠経由の箱根路ではなかった。当時の足柄峠は足柄坂と呼ばれ、そこより東は坂の東ということで坂東と呼んだ。坂東武者の坂東はここから来ているが、そう呼ばれた平安時代には、足柄峠が表街道であったことの証左である。

 だが、延暦21年(802)から翌年にかけては、富士山の延暦の大噴火でその足柄路が一時的に封鎖されてしまい、新たに筥荷途と呼ばれた箱根峠経由の道がその迂回路として利用された。それまで、駿河相模間の最短路としての需要から間道の類はあったと思われるが、箱根路が正式に街道として整備されたのはこの時である。

復元された箱根関

 以後、足柄路と箱根路は併用されたが、あくまで主街道は足柄路であった。だが、頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京都と鎌倉を結ぶ東海道も新たに整備し直され、鎌倉付近の道が海沿いへと付け替えられたほか、箱根路が足柄路と同等に整備されたという。これにより、鎌倉への最短路となる箱根路が、次第に多く使われるようになった。

 そして、江戸時代には箱根路が本道として整備されたため、その通行を監視すべく、幕府がこの箱根関を整備したのである。

 箱根に関する関所としては、昌泰2年(899)に足柄関が設置されており、併用路だった箱根にも同時期に関所が置かれていたようだ。それ以降は、関の東側西側両方にとって通行上、防衛上の要所として考えられ、何か争乱が起こる度に俎上に上る場所となったが、平時はまた別の役目があり、時の権力者による通行料徴収などが行われ、寺社の修繕費などに使われたという。

 室町時代には、三島市の元山中に関所があったことが知られている。当時の箱根路は、推定平安鎌倉古道と呼ばれるルートをほぼ踏襲していたと考えられ、三島大社から元山中を通って海ノ平に出た後、芦ノ湖畔を通り、箱根権現を経由して湯本へと向かう街道であったようだ。

箱根関解説板

 これが永禄年間(1558-70)に戦国大名の北条氏によって山中城が造られる頃になると、箱根峠西側は現在の国道1号線とほぼ同じになり、関所機能も城に吸収された。その後、箱根峠東側も、天正18年(1590)の秀吉の北条征伐の際に石垣山城への通行路としてターンパイクに近いルートで関白道が開削され、江戸時代には俗に箱根八里と呼ばれる須雲川沿いの新街道が開通し、それに付随する形で監視所としての箱根関の設置へと繋がるのである。

 ただし、最初の関所は元箱根の箱根権現近くにあり、住民からの苦情の申し立てを経て、元和5年(1619)にこの跡地に移転したという。

 関所は、芦ノ湖と屏風山に挟まれた街道上の隘路にあり、山の中腹から芦ノ湖の湖底にまで杭を打ち、屏風山側には遠見番所芦ノ湖側には外屋番所を置いて、関所を通らずに越境する者を関所破りとして厳重に監視した。内部は、北東から南西に通る街道両側に高麗門を置き、大番所足軽番所が向かい合う構造で、周囲はすべて高い塀で囲まれており、厳重さがよく解る。

 俗に、「入り鉄炮に出女」といわれ、軍需品の象徴である鉄砲と、江戸に置かれた各大名の人質たる妻女の出入りは、大名の謀叛や騒乱の兆候を掴む上で非常に大事であった。逆に、江戸から鉄砲が出る際には、その監視目的から外れるため、それほど厳しい制限は無かったという。

箱根関へ続く杉並木

 また、太平の時代が続くと幕府の支配体制も安定し、そのような監視対象ではない庶民には、お伊勢参り等を申請すれば簡易な手形が発行され、比較的簡単に通行できたようだ。ちなみに、この箱根関では、後に同じ東海道の新居関との役割分担が定められ、出女を主に監視していたという。

 関所制度はその後、幕末に入ると文久2年(1862)の文久の改革による参勤交代の緩和や大名妻子の帰国などで最大の役割が失われ、慶応2年(1866)の慶応の改革を経て検問などが行われるだけの存在となり、明治2年(1869)に明治政府によって廃止された。

 跡地は、大正11年(1922)に国の史跡となり、昭和40年(1965)には番所が復元されたが、後に克明な関所資料が発見されたことにより、平成19年(2007)春に発掘調査に基づいて忠実に復元されている。

 訪れた時は日没前後で、周辺の土産物屋なども含めて閑散としていたが、おかげて落ち着いて見学することができた。夕暮れ時の芦ノ湖畔というのは、観光都市だけあって人がまばらで、なかなか寂びた味があって良い。関所の江戸口側には、幕府が整備した杉並木が保存育成されており、道幅も当時の幅に戻されているので、杉並木を抜けると関所が見えてくるという街道の雰囲気が味わえるのもまた良かった。

 

最終訪問日:2013/5/18

 

 

心残りなのは、関所付近から芦ノ湖越しに富士山が見えなかったことですね。

ここにカメラを置けばベストショットになるよ、というカメラ台もあったのに、晴れ間のタイミングに恵まれませんでした。

夕日と富士山と芦ノ湖という構図で撮れたら、これ以上ない写真だったでしょうね。