Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

天神山城 (越中)

通信鉄塔が建つ天神山城本丸の削平地

 標高163mの天神山に築かれた山城で、萩城ともいう。

 史料に初めて見えるのは元亀3年(1572)だが、一説には、まだ長尾景虎と名乗っていた頃の上杉謙信が天文23年(1554)に築城したともいい、松倉城との近さから、長尾氏に従属していた椎名氏を後援する立地というのがありありと見える。ただ、別の説として、松倉城の支城として椎名氏が築いたという説もあるようだ。

 後に、椎名康胤が上杉氏から離反すると、上杉氏にとっては越中における攻略拠点となり、椎名氏の名跡を継ぐべく椎名小四郎を名乗った長尾景直が置かれている。そして、さらに領地が西へ広がるにつれ、重要な中継拠点になって行ったようだ。

 天正10年(1582)の織田軍の侵攻による魚津城の戦いの際には、後詰めで出陣してきた上杉景勝がこの城に在城しているのだが、この頃の魚津城は、すでに城内まで侵入を許した末期的状況であった。その上、信濃や上野からも織田軍が越後に侵攻するという情報があり、決死の覚悟で出陣してきた景勝も帰国せざるを得なくなったため、松倉城を守っていた須田満親と合流し、5月末には陣を畳んで帰国している。

 これにより、中継拠点としての天神山城も放棄されたと推測され、本能寺の変の翌日にあたる6月3日、約3ヶ月の籠城むなしく、後詰を失って孤立した魚津城は陥落してしまった。そして、景勝の撤退後に天神山城は織田軍が接収したと思われるのだが、本能寺の変によって織田軍が撤退したため、再び上杉軍の手に戻ったと思われる。

 その後、佐々成政が上杉軍の逆襲に耐え、やがて上杉軍を越後に押し戻して越中を制したのだが、天正13年(1585)の富山の役の際、秀吉の遠征軍に呼応した上杉勢が再び城を奪回したと見られ、成政が降伏して新川郡が安堵された後も、上杉方の城番が詰めていたという。

 成政が、天正15年(1587)の九州征伐後に肥後を与えられると、越中前田利長の領国となり、その家臣青山吉次・長正父子が魚津城と共に城代として統治した。ただ、いつ頃まで城が使用されていたのかは定かではない。

 現在の城跡には、2段の削平地の付近に土塁跡と見られる土盛りなどがあったが、道路や鉄塔ができているためか、案内板にあった帯郭や空堀、竪堀などはよく判らなかった。往時は規模がかなり拡張されていたようで、一説に金太郎温泉付近まで城地が拡げられていたともいわれる。

 天神山の頂上付近からは、2世紀末の倭国大乱に関係すると見られる弥生時代の遺物も発見される事から、その当時も城砦として使用されたと考えられ、地形上の立地の重要さは時代を経ても変わってなかったのだろう。現在は、中腹に魚津市の歴史民俗資料館が建てられているほか、本丸跡には前述のように通信鉄塔が建っており、残念ながら史跡の雰囲気がやや乏しい城跡となっている。

 

最終訪問日:2001/9/17

 

 

一通り散策してみたんですが、2段の削平地以外は、なかなか明確な遺構というのが無かったですね。

良くも悪くも公園化されているので、気軽に寄れる城ではあります。

 

高岡城

 慶長14年(1609)、加賀藩2代藩主前田利長の隠居城となっていた富山城が、城下からの火災によって城内の建物のほとんどを焼失してしまった。これにより、利長は一時、魚津城に身を寄せるのだが、やがて、富山城の再建ではなく、新たな隠居城として関野の地に城を築城することを選んだ。

 この辺り、後の小松城の大改修もそうだが、徳川幕府も、大藩の前田家には何かと一目置いていたのかもしれない。こうして、新たな隠居城として高岡城が築かれ、同時に地名も高岡と改められることによって高岡と高岡城の歴史は始まった。

 城の縄張は、豊臣政権期にキリスト教の禁教令に背いて追放され、前田家の預りとなっていた高山右近重友が担当したと伝わっており、その戦国を生き抜いてきた思想によるものか、江戸時代に築かれた近世城郭ながら、戦国時代らしい構造が所々に見られる城となっている。このため、全体を見た感じでは、隠居城と考えるには軍事的構造が整えられ過ぎている城という印象が強い。

高岡城本丸と二ノ丸の間の土橋と石垣

高岡城本丸

 城の構造としては、中央に本丸を置き、その西南にある二ノ丸から反時計回りに、桝形を拡張したような鍛冶丸、明キ丸、三ノ丸、そして沼田に囲まれた御城外が本丸を取り囲むようにあり、全体として北東方向から南西方向にかけての長方形の形をしている。

 本丸の北西に郭は存在しないが、当時はこちらに沼や深田が広がっており、天然の地形の防御力をうまく取り込んでいたらしい。また、本丸の北側には張り出した部分があり、天守閣が予定されていたともいう。

 城としての存在期間は短く、慶長19年(1614)の利長の死後、稲垣与右衛門や岡島一吉が城を守ったが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となり、建物などは破却された。また、一説に廃城は寛永15年(1638)のことともいう。

高岡城縄張と説明

高岡城中ノ島と内堀

 だが、城域自体は藩によってその後も管理され、幾棟かの倉庫も建っていたようだ。そういう経緯もあってか、石垣の一部や水堀の大部分は現在も残っており、城郭全体が古城公園として整備されている。

 前に訪れた時は、何かの大会か試合があったのか、平日の割に人が多かった印象が強かったが、22年振りでもその印象は変わらなかった。相変わらず都市部の城跡らしく、日曜ということもあって家族連れなど多くの人がおり、絶好の緑地として市民に利用されているようだ。また、城内の射水神社には弓道場があるのだが、この日はちょうど弓道の試合があったようで、袴姿の学生が歩いており、古城らしい雰囲気に花を添えていた。

高岡城天守跡付近

縄張を担った高山右近の立像が富山城大手門近くにある


最終訪問日:2017/5/21

 

 

都市公園という感じのお城で、明石城ほどの立派な高石垣は無いですが、どちらも弓道場がありますし、なんとなく雰囲気が似ていて、親しみが持てますね。

そういえば、高山右近も一時は明石城(船上城)主でした。

すごく個人的にですけど、縁を感じる城ですね。

 

白鳥城

 富山市街の西にある呉羽丘陵に築かれた山城。

 白鳥城の築城年代は不詳だが、弥生時代の集落の跡が見つかっており、太古の昔から、平地に対する軍事的優位を得られる拠点として使われていたようだ。有史時代では、木曾義仲の四天王に数えられる今井兼平が越後から進出し、寿永2年(1183)5月の般若野の合戦の前夜に呉羽山に陣を敷いたのが初出である。

 城として機能するのは戦国時代で、越中西部の守護代であった神保長職が天文12年(1543)に富山城を築いて新川郡に進出するのだが、この長職によって城として整備された。

 その背景として、長職の新川郡への進出による越中東部の守護代椎名氏との対立があり、その後ろ盾であった長尾景虎(上杉謙信)の侵攻に備えて本格的に築城されたとされることから、平城の富山城の詰として考えられていたのだろう。

 ただ、長職が富山城周辺へ西から進出してきた事を考えると、前衛拠点化可能な目ぼしい山というのは呉羽丘陵しか無く、新川郡への進出を果たす以前から、既に城砦として活用していたとしてもおかしくはない。

駐車場に建つ白鳥城址

白鳥城説明板

 長職は、新川郡に進出したことによって越中最大の勢力となり、永禄年間(1558-70)初頭には再び椎名氏と激しく対立するようになった。そして、同3年(1560)に椎名氏の居城松倉城へ、一向一揆と連合して攻め寄せたのである。

 だが、この事態を受け、椎名氏の後ろ盾である景虎越中に出兵し、瞬く間に連合軍を破って富山城を抜き、長職が逃げ込んだ増山城も陥落させた。これにより、白鳥城も長尾氏が領有したと思われる。

 長職は、その後も同5年(1562)に長尾氏改め上杉氏に1度敗れた後、神通川での合戦で上杉・椎名連合軍を破って松倉城へ攻め寄せているが、上杉軍の後詰によって後退を余儀無くされ、増山城に籠もったものの降伏に追い込まれた。この流れの中で、白鳥城も富山城と同様に争奪の的となり、領有も変遷したのだろう。

 その後、同11年(1568)には、今度は上杉氏に従属していた椎名康胤が武田氏に通じて叛乱しており、同年と翌年、更に元亀2年(1571)に謙信は自ら越中に侵攻している。しかし、椎名氏を滅ぼすまでには至らず、富山城などを巡って激しい争奪戦が繰り広げられる事になるのだが、富山城に近い白鳥城も同様に争奪されたのではないだろうか。ただ、史料には城はあまり登場せず、元亀3年(1572)に椎名氏と組む一向一揆によって落城したことが見える程度という。

2段に分かれた白鳥城本丸の下段

白鳥城二ノ丸

 謙信は、その後も断続的に越中に出兵を続け、天正4年(1576)には一向一揆と和睦して椎名氏を滅ぼし、越中統一を果たした。しかし、同6年(1578)に謙信が没すると、上杉家中で御館の乱という家督争いが発生し、これに機として織田氏越中に進出するようになる。

 上杉軍は、重臣河田長親の善戦によってなんとかこの侵攻に抗っていたが、長親が急死すると劣勢になり、天正10年(1582)3月に富山城が陥落した。白鳥城もこの前後に落城したと思われる。

 その後、織田軍は魚津城まで進出するが、魚津城落城前日の6月2日に本能寺の変が発生し、織田軍は魚津城を放棄して撤退した。ただ、織田家臣で富山城主の佐々成政が踏ん張っており、白鳥城もそのまま成政の属城として機能したはずである。

 成政はこの後、寄親であった柴田勝家に従って秀吉に対抗し、勝家が翌年の賤ヶ岳の戦いで敗れて北ノ庄城で自刃した後も秀吉に臣従しなかった。このため、天正13年(1585)に秀吉の討伐を受けるのだが、その際の本陣として白鳥城が選ばれている。だが、秀吉が富山城の包囲網を完成させる前に成政が降伏したため、秀吉が白鳥城に入ったのは、富山城からの引き上げの際であった。

白鳥城本丸外郭

白鳥城東ノ丸

 戦後、越中の内、新川郡を除く大部分は前田利長に与えられ、新川郡を安堵された成政に備えて利長は岡島一吉と片山延高を置いたが、後に2人は山城の不便さもあったのか、それぞれ安田城と大峪城に移っており、白鳥城は共通の詰城として位置付けされていたのだろう。ただ、天正15年(1587)になると、成政が肥後に移されて越中一国は利長の領地となっており、戦時の城は不用になったため、城が活用されていたかどうか不明である。

 その後、利長が慶長2年(1597)に富山城を居城とすると、その支城として白鳥城には一吉と延高が再び在城したことが見えるが、数年後に廃城となったようだ。

 城は、呉羽丘陵の最高部である標高145mの城山に築かれ、東側は断層による断崖となっているが、その崖際に天守台もある方形の本丸を置き、その周囲に1段下がって北に二ノ丸、西に本丸外郭、西一ノ丸が置かれていた。これが城の中核部だろう。

白鳥城縄張図

白鳥城東出丸と三ノ丸の間の空堀

 この中核部の周囲に、空堀などを挟んで東から反時計回りに三ノ丸、東ノ丸、北ノ丸、北二ノ丸、西二ノ丸と構えられ、稜線の続く東西にはそれぞれ東出丸と西出丸もあり、かなりしっかりとした構造の城である。ただ、丘陵上は高低が少ないため、城の北西から北東に掛けては緩やかで、その方向の防御面でやや心配が残りそうな印象の城だった。

 呉羽丘陵は、富山ではレジャーの山になっているようで、丘陵を貫く立派な2車線道路が整備されており、その頂上部の駐車場から城へ入ることができるので、山城ながら登りやすい城である。ただ、城内は史跡公園として整備されているのものの、削平地以外は藪と化しており、空堀や土塁などがほとんど確認できなかったのは残念だった。城から駐車場の反対側には標高が城とほぼ同じ程度のピークに展望台もあるので、少し歩けば立山富山市外が一望できる絶景も楽しめる城である。

 

最終訪問日:2017/5/20

 

 

アクセスが良い上に城跡の遺構も技巧的で見所が多く、お勧めのお城です。

展望台からの、富山市街と立山の景色がとても良かったんですが、成政を討伐に来た秀吉は夏の来訪だったので、この春の景色は味わえなかったでしょうね。

こんなに素晴らしい景色だったのに、惜しい!

 

小菅沼城

武隈屋敷跡の碑と石垣

 室町時代越中国新川郡の守護代であった椎名氏の本拠松倉城の北約1.8kmに位置する出城で、家老であった武隈氏の城。武隈屋敷とも呼ばれる。

 武隈氏の子孫が記したという「武隈家記」には、暦応4年(1341)に足利尊氏の命で相模から椎名胤明が松倉城に入部し、武隈元長もそれに従って三百山に住したという。ただ、椎名氏は、鎌倉時代から既に越中に移住して基盤を持っていたという説もあり、実際のところはよく判っていない。

 いずれにしても、小菅沼城は武隈氏の居館から出発した城で、大手が魚津方向に向き、搦手が間道を通じて松倉城と繋がっていることから、松倉城と連携を取りつつ一次的な防御線を構築していた出城と考えられる。

 とは言え、規模的には一辺が60~70mの単郭方形という典型的な居館城郭で、本城と同様に険阻な山に構えられてはいるものの、出城であるが故に大きな防御力は持ち合わせていなかっただろう。

小菅沼城の説明板

 松倉城は、南北朝時代には主に南朝方の拠点として北朝方との戦場になってはいるが、この小菅沼城の周囲には石垣がある上、城門に桝形という戦国末期の城郭技術が導入されていることから、居館から出城へと発展したのは南北朝時代ではなく戦国期だろうか。ただ、石垣自体は目が斜めに通る谷積みに近く、江戸時代の構築という説もあるという。

 戦国期の松倉城では、永禄3年(1560)に神保長職による攻撃があったが、椎名氏は越後の長尾氏に臣従していたことから、この時は後の上杉謙信である長尾景虎の救援で事無きを得た。しかし、同11年(1568)に椎名氏が上杉方から武田方へ寝返ったことにより、上杉謙信の3度の討伐を受けて翌年に落城しており、これらの計4度の攻防で小菅沼城も戦場となった可能性が高い。ちなみに、武隈家記では、松倉城落城は天正4年(1576)のこととしている。

小菅沼城の郭内の削平地と右手の土塁跡

 椎名氏は、松倉城落城後も富山城などに転戦して一定の勢力を持っていたと見られることから、武隈氏も主君と共に各地を転戦していたのだろう。武隈家記では、戦乱が収まった文禄4年(1595)に武隈元重が三百山を小菅沼に改名して居住したとあり、帰農して故地に戻ったと考えられ、城もこの頃までには廃城になっていたらしい。そして、武隈氏の子孫は、明治期までこの地に住していたようだ。

 現在の城地には、石垣や土塁が良好な状態で残っているが、跡地がそのまま民家の敷地として使われていたため、江戸時代にはある程度の改変があったのではないだろうか。この周辺にも居館跡が多くあるそうなので、当時は一帯が武家屋敷になっていたのだろう。また、城の少し下には斜面を拓いた田畑が広がるが、もしかしたらこれも武家屋敷跡を開墾したものかもしれない。

 城は、松倉城から小菅沼地区へ下りていく途中の三叉路にあるのだが、周辺に駐車するスペースが無いので、車で訪れる人は注意が必要である。

 

最終訪問日:2017/5/21

 

 

1度目に訪れた時は、松倉城へのメインの道が通行止めで、迂回路を探して松倉城の周辺道路をぐるぐると廻っている時に見つけました。

結局、その時は松倉城に辿り着けなかったので、しばらくは松倉城の悔しい思い出の象徴でしたね。

16年後にリベンジで松倉城を訪れた後、小菅沼城にもあっさり到着したので、あの彷徨った時間は何だったんだろうという気になりましたが笑

 

北山城

北山城北西端の削平地と物見台跡と思われる台状の地形

 南北朝時代から東越中の主たる拠点であった松倉城の、北約2.2kmに位置する支城。

 松倉城は、前述のように南北朝時代から戦国時代までの長期間に渡って東越中の拠点として使われたため、随時、拡張と支城網の整備が行われたと見られ、多くの支城を持っている。そのひとつがこの北山城であり、金谷山城ともいう。文字通り、松倉城の北側の山に位置する城である。

 北山城は、史料には殆ど登場せず、戦国時代の永禄11年(1568)に、上杉謙信によって松倉城が包囲された際に落城したことが見える程度で、築城時期を始め、城主名、廃城時期も不明という。

 ただ、松倉城は、領地支配が安定した前田氏時代には、魚津城に主役を譲り渡して重要視されておらず、必然的に城下町の縮小も起こったはずで、城の持つ北の守りの役目の意味がほぼ無くなったと考えられるため、廃城時期については、魚津城への機能移転の頃と目星が付けられるだろうか。

北山城説明板

 築城時期に関しては、同じく支城である水尾城が貞和2年(1346)に陥落した文書が残っており、南北朝時代から松倉城の支城網の整備が進められていたのは間違いないのだが、その最初は、角川と早月川に挟まれた丘陵部の区画であったと思われ、北山城の築城は、水尾城のかなり後と考えられる。つまり、松倉城城下町が北山や坪野方向に発展するに従って、その守備の必要性から北山城が整備されたのではないだろうか。

 そう考えると、その時期は南北朝時代を過ぎて政情がある程度安定した室町時代中期以降から、戦乱による防衛の必要性が生じた戦国時代初期あたりの可能性が高そうだ。

 城は、松倉城から川筋を挟んだ北側の山に構えられており、頂上部を逆L字型に削平して城域を確保している。逆L字型の一方の先端である北西突端部は、その手前に比べてやや高くなっており、物見台があったのだろう。

北山城縄張図

 同じく城郭内の高さを見ると、逆L字型の鈎部がやや高くなっており、竪堀なども厳重に張り巡らされているため、ここが城の中心だったと思われる。ただ、北西側は綺麗に整備されているものの、L字型の鈎部は藪化しており、遺構ははっきりと確認できなかった。

 城へは、松倉城へ向かう県道33号線に案内表示が出ており、道程は非常に分かり易い。また、北山鉱泉の小さな温泉街のすぐ上であり、北山鉱泉に向かえば自然と城の場所も判るだろう。

 城への道は、非常に急で狭くもあるが、主郭部のすぐ直下まで舗装道が繋がっており、小さいながら駐車場も用意されているので、訪れるのは非常に楽だった。城跡の北端の物見台跡らしき場所からは、魚津市街から日本海までの眺望が開けており、往時は、敵の接近をこの場所で視界に捉えたのだろう。当時の様子に思いを馳せると、眺望の良さもあったのか、妙に感慨深く感じられた。

北山城の中心と思われる一段高い最高部は藪化していた

 

最終訪問日:2017/5/21

 

 

松倉城一帯は、本城はもちろん、支城群の史跡整備が行き届いてますよね。

北山城は支城なので、マイナーではあるんですが、藪化した一部を除いて整備もされており、散策しやすかったです。

魚津と日本海の眺望は、本当にお勧めですね。

 

内山城

 越中守護であった井上俊清が松倉城を追われた後、籠もった城。

 井上氏の来歴は不明だが、鎌倉時代末期には、俊清は越中の有力武将になっていたようで、新川郡の又守護代を務めていたともいい、越中守護で名越流北条氏の北条時有討伐に功を挙げ、建武政権期に越中守護となった。

 その後、尊氏に味方して武家方として活動したが、康永3年(1344)に守護職を罷免されてしまっている。これに不満を持った俊清が南朝方に寝返ったため、新たに守護となった桃井直常能登守護であった吉見頼隆に討伐が命じられたが、俊清は南朝方の武将と連携し、争いは数年間に渡って続いたようだ。

 俊清は、貞和2年(1346)3月に能登木尾嶽城で南朝方の武将新田貞員、栗澤政景、冨来俊行と共に籠城していることが見えるが、5月に城は落ち、俊清は松倉城へ退いた。そして、その年の閏9月に俊清は降伏しているが、翌年には再挙兵したようで、再び頼隆や越中守護桃井直常が俊清討伐を行っている。しかし、松倉城は天険の堅城で、ようやく同4年(1348)10月になって松倉城が落ち、俊清はこの内山城に逃れて本拠にしたという。

 ただ、その後の城の事跡は不詳である。直後の観応元年(1350)から起こった観応の擾乱において、直義に味方した直常に対し、俊清は尊氏方として越中守護に復帰しているが、直常が松倉城を失陥した様子は見えず、また、後には両者は協力関係となったため、俊清は内山城を本拠とし続けたのではないだろうか。そして、延文4年(1359)に俊清が吉見勢に敗れて越後に追われて以降は、城は全く史料に登場せず、廃城がいつ頃だったのかもよく分からなかった。

 城は、宇奈月温泉への入口に当たる富山地方鉄道愛本駅の後背にあるようだ。しかし、周囲の細い道や林道を走り回っても、案内板の類は見当たらなかった。俊清が松倉城から移って築いた城だが、見たところ、比高は松倉城より低く、松倉城に比べると峻険さはそれほどでもない城のようだ。

 

最終訪問日:2017/5/21

 

 

地図に載っている城周辺の道をくまなく走って探したんですが、登城口を見つけることができませんでした。

と言うか、山に入ることができそうな雰囲気すら無い・・・

ネットで探しても、登ったという方の記録が極端に少なく、直登しないと登城は無理なようです。

藪と斜面をものともしない勇者しか辿り着けない城ですね・・・

 

魚津城

 松倉城から角川をまっすぐ下ったところにあるという立地場所でも解るように、魚津城は、もともとは松倉城の支城として築城された。築城年代に関しては、建武2年(1335)に椎名孫八入道が築城したという説もあるが、魚津市では、15世紀に同じく椎名氏によって築かれたとしている。

 椎名氏は、南北朝時代には松倉城を本拠地としていたようだが、松倉城は、南北朝時代には度々南朝方の主城としても使われるなど変遷が激しく、実際に椎名氏がずっと支配し続けいてたかどうかというのは史料からは掴み難く、また、その入城時期も不鮮明である。ただ、南北朝合一後になると、越中の守護であった畠山氏に属して支配が安定したようだ。

 魚津城の築城時期としては、椎名氏が、越中入部期の領地である松倉郷から、海沿いの魚津にまで勢力を拡げたという背景が必要となる。それは、畠山氏の重臣として安定した時期、つまりは魚津市の説の通り15世紀と見るのが良さそうだ。

 その後の椎名氏は、守護の畠山氏から新川郡の守護代を任されていたものの、戦国期には、同じく守護代であった神保氏と共に畠山氏からの独立を志し、この動きを抑えるべく畠山氏の依頼で越中に出陣してきた長尾為景に敗れ、臣従した。

富山城址

 その後、為景没後の混乱によって後ろ盾となっていた長尾氏が衰えると、これを機と見た神保氏と度々争って次第に利を失い、新川郡を蚕食されてしまう。この神保氏の攻勢に対し、当主の康胤は、長尾氏と共にこれに抗し、永禄3年(1560)に松倉城へ攻め寄せた神保長職に対しては、為景の子景虎を頼って撃退に成功している。

 だが、永禄11年(1568)には、今度は康胤が武田信玄の調略に乗って一向一揆に味方し、景虎から名を改めた上杉謙信に叛旗を翻した。このため、謙信が自ら越中に出陣して康胤を攻撃し、その後に幾度か魚津城の攻略と奪回があったようだ。最終的には、謙信が越中東部を掌握して椎名氏は没落し、魚津城に河田長親を入れ、後に長親は松倉城に転じた。

 その後、上杉家では、山間の山城である松倉城よりも、物流の拠点と成り得る魚津城の方を重視したようで、織田氏越中に迫った天正9年(1581)頃には、重臣斎藤朝信を魚津城に入れて守らせているほか、翌年には、包囲されていた魚津城の救援に当主景勝自ら向かったことが見える。

魚津城説明板

 しかし、この時は関東と信濃の織田軍が本国越後を衝く気配があり、景勝は後詰決戦を諦めて止む無く撤退せざるを得なかった。その1週間後、約3ヶ月の籠城に耐えながらも、後詰を失ったことで、もはや落城必至と見た中条景康、吉江景資、竹俣慶綱、蓼沼泰重らの城将は覚悟を決め、一斉に自刃して6月3日に落城するのである。奇しくも、本能寺の変の翌日のことであった。

 ただ、一説には、この落城は織田軍の騙まし討ちであったともいう。魚津城と同時に攻撃されていた松倉城は、開城によって須田満親が越後へ無事に撤退しているが、魚津城でも同様の交渉があり、次郎右衛門なる織田方の武将が開城を保証する人質として入城したと佐々成政が記している。しかし、信長から総攻めの命が届いたことで次郎右衛門は切腹し、前述の攻撃と落城に繋がったという。

 魚津城落城後、城をようやく攻略した織田氏の北陸方面軍であったが、落城翌日には信長横死の報が伝わり、総大将であった柴田勝家は魚津城を放棄して各部隊に撤退を命じている。

 すると、息を吹き返した上杉軍が再び魚津城を奪い返し、さらに進んで越中を所領としていた佐々成政とも戦った。だが、成政は混乱する状況の中で踏ん張り、翌年には魚津城を包囲して城将須田満親を降伏開城させ、再奪取に成功している。

魚津城址にある大町小学校周辺案内図

 その後、天正13年(1585)に秀吉が越中平定を企図して大軍で押し寄せると、成政は降伏し、成政の領地として残されていた新川郡も、天正15年(1587)には前田家に与えられ、魚津城も前田家が支配することとなった。

 前田氏時代は、城代として青山吉次が置かれ、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった後も青山家が代々周辺を治めている。また、慶長14年(1609)に前田利長の隠居城となっていた富山城が火災で焼失した際には、魚津城が一時的な避難場所になった。

 城は、江戸時代の絵図に、方形の主郭と二重の水堀が描かれており、南北の鴨川と角川を天然の防御線とするシンプルな城だったようだ。ただ、城下町が整備される前の戦国時代は、沼に囲まれた要害だったという。

 城は、現在の市街地の海側にあったが、遺構は市街化で失われ、その存在を示すものは、大町小学校内の城址碑のみとなっている。城域としては、その大町小学校と隣接する簡易裁判所がそれにあたるようだが、現地では、城下町の町割りがなんとなく窺える以外、城跡というのを実感するのは難しい。

 

最終訪問日:2017/5/20

 

 

毎度の事ながら、学校が城跡の場合は妙に緊張しますよね。

事案にならないように・・・

魚津城の場合は、土曜日で子供がいなくて助かりました。