Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高知城歴史博物館

 高知城土佐藩主山内家に特化した歴史博物館。平成29年(2017)3月の開館。

 高知城高知城下に関する展示はもちろん、高知城の主であった土佐藩主山内家に伝わった歴史資料や甲冑、刀剣といった武具類や、茶道具や能面といった美術工芸品を中心に展示している資料館である。また、博物館に収蔵している図書や、他の資料館等に収蔵されている資料などの写しを閲覧できる閲覧室などもあり、高知城や山内家についての知識を深めることが可能だ。

 展示関係以外では、体験教室が行われる実習室や、シンポジウムなどを開くことが可能なホール、茶会を催すことができる茶室、イベントで使われるステージなど、様々な企画に対応できるスペースも備えており、総合的な大型文化施設と言えるだろう。

 このほか、お土産を売っているミュージアムショップや、休憩ができる喫茶室、高知城の大手門から天守までを眺める事ができる展望ロビーや高知県の情報コーナーもあり、高知城を訪れる観光客の、ビジターセンターの役割も担っているようだ。

 資料館の内部に入ると、館内はビジターセンターに相応しい、非常に明るいイメージで、いかにも新しいモダンな施設という雰囲気である。2階の展示フロアに入ると、資料館らしい落ち着いた照明となるが、立体的に工夫された展示や映像などが多く、これまた新しい資料館ならではの、視覚的に解りやすい展示となっていた。

 高知城を訪れる観光客は多いのだが、観光客がお城を訪問する前の予習として、あるいは訪問後の復習や知識の深化を図る施設として、狙い通り非常に最適な施設である。また、天守との共通券も販売されており、お城から高知城下の各ポイントへ誘導する施設としても、その入りやすさから、うまく機能しているのではないだろうか。

 

最終訪問日:2019/11/11

 

 

開館後2年半で訪れたので、まだピカピカの館内でした。

新しい資料館らしい、やや近未来的なデザインに城郭建築物の味付けしたような建物で、外観の雰囲気も良い建物ですね。

時間の余裕もある日だったので、先ほどまでいた高知城を改めて見たり、お土産を見たりと、館内でゆったりと過ごせました。

 

高知県立歴史民俗資料館

 高知県全体の歴史資料や民俗資料を展示している資料館で、どちらかといえば、民俗系よりも歴史系の展示が多い資料館となっている。そのためか、通称が歴史館となっているようだ。開館は平成3年(1991)5月3日。

 四国をほぼ統一し、土佐の出来人と称された長宗我部元親の居城岡豊城は、その名の通り、岡豊山にあった。資料館は、その岡豊山の北東の中腹にあるため、資料館を含めた山全体が、歴史資料でもあると言えるだろう。

 そのような立地ではあるが、展示内容は、それほど戦国時代に偏っているというわけではなく、上代の遺物から、土佐日記が有名な平安時代、多くの志士を輩出した近世まで、網羅的に見やすく展示してあり、思ったよりも幕末付近の歴史資料が充実しているような印象だった。

 民俗資料については、漁民や鍛冶などについて、ビジュアル的に大きく展示してあり、見た目には解り易いが、ボリューム的にはやや控えめな印象だろうか。ただ、全体的な展示のバランスとしては、非常にすっきりとして整理された感じだった。

 県立の施設だけに、資料館内には、休息室や体験学習室などもあり、充実した設備を持つ資料館である。また、貸出エリアとして、企画展示室や多目的ホールがあり、そのほかでは、山村民家という名前になっている、旧味元家住宅主屋を借りることも可能だ。

 

最終訪問日:2004/9/9

 

 

県立の施設としては珍しく、市街地から離れた目立たない場所にありますが、県立の建物だけに、充実した設備を持っているな、という感じでしたね。

館内には、長宗我部氏に関する文書などの一次史料を収録した、資料館発行の本が置いてあり、つい衝動買いしてしまいました笑

博物館や資料館って、そこでしか売っていない本とかあるので、衝動買いを誘発するんですよね。

 

安芸市立歴史民俗資料館

 安芸市に関する歴史資料や民俗資料を展示する資料館。昭和60年(1985)に開館した。

 安芸の歴史は古く、平安時代から安芸郡という名があるように、安芸川や伊尾木川の運んだ土砂によって平野が広がり、早くから集落などが発展していたと思われる。

 資料館は、戦国時代に安芸郡一帯を支配していた、安芸氏の居城である安芸城跡に建つ。この安芸城は、戦国時代に安芸氏が長宗我部氏に滅ぼされた後も、西の重要拠点として使われ、長宗我部氏に代わって山内氏が入部した江戸時代も、草創の功臣で家老を務めた五藤家の居館として使われ、安芸郡の中心であり続けた。

 資料館内の展示は、中世以前の考古資料などは少ないが、五藤家による寄贈や寄託などにより、近世から近代にかけての歴史民俗資料が充実している。

 特に、五藤家が残した各種の文書である五藤家文書は、江戸時代の土佐藩の支配体制の実態がどのようであったかを知るには、非常に貴重な史料になっているという。また、展示されている武具や美術品なども、五藤家に伝わっていたものである。

 このほか、安芸郡井ノ口村生まれで三菱財閥の礎を築いた岩崎弥太郎や、安芸郡土居村出身の作曲家弘田龍太郎、安芸郡河北村出身の思想家、翻訳家である黒岩涙香など、安芸郡にゆかりのある人物の遺品などが多数収蔵されていた。

 全体的に見ると、民俗資料よりも歴史的な史料が印象的で、民俗資料が多い一般的な歴史民俗資料館に比べると、歴史資料館としての趣が強い資料館と言えるだろうか。ちなみに、資料館は書道美術館と隣接しており、共通入場券も用意されている。

 

最終訪問日:2004/9/9

 

 

個人的には、やっぱり山内一豊に従って山内家の興隆に貢献した五藤氏のものに興味がありますね。

特に、一豊が朝倉方の三段崎勘右衛門と死闘した際に顔に刺さり、これを五藤為浄が抜いて五藤家の家宝にしたという鏃には、目を引かれました。

司馬遼太郎の「功名が辻」でも、とても印象的な場面として描かれていますしね。

 

室戸岬

 東西に広がる高知県の東の南端にあたる、室戸半島南端の岬。

 剣山から延々と続く山塊が太平洋へと落ち込む場所で、太平洋に三角に突き出した形状をしており、岬の突端を境として、西が土佐湾、東が紀伊水道となる。

 室戸岬周辺の特徴的な地形は、海面上昇と下降が繰り返された際に海食崖を作り出し、これに一帯の急激な地殻の隆起によって、階段状の地形が形成された。現地を訪れてみると、中岡慎太郎像などがある、僅かな海岸線付近の平地から、急激に150m前後の崖が立ち上がり、その上部は比較的平坦な地形となっていることがよく解る。

室戸岬の後背にある室戸岬灯台

 その平坦な地形と崖の境目にあるのが室戸岬灯台で、第1等レンズを装備した日本に5ヶ所しかない第1等灯台であり、その光達距離は約49kmと、日本一を誇るという。また、灯台の歴史は古く、明治32年(1899)4月1日に初点灯され、その歴史からAランクの保存灯台に指定されている。

 室戸岬灯台の位置は、北緯33度14分50秒、東経134度10分32秒と現地に表記されていたが、岬の突端ではないため、やや内陸部の座標となっており、海際の突端に近い灌頂ヶ浜付近の座標は、およそ北緯33度14分41秒、東経134度10分36秒であった。

室戸岬からの夕景

 室戸岬一帯では、山からの裾野が直接海に入るかと思えるどの勾配があり、いかにも岬らしい風情があると言えるだろうか。また、交通の便が悪いためか、訪れる観光客は多くなく、果て感が十分にあった。これは、室戸岬灯台が断崖上にあるため、そちらへ向かう観光客が多いというのもあるのだろう。

 室戸岬付近からは徳島県に掛けては、室戸阿南海岸国定公園に指定されており、延々と海食崖が海へ急激に落ち込む地形が続いており、四国南東部の特徴的な景色を味わえる。岬の突端へと向かう道は、同じ景色が続く果てしない道で、華やかさには欠けるものの、これはこれで室戸岬一帯の空気が感じられる道でもあった。

 

最終訪問日:2019/11/10

 

 

関西に住んでいると、夏から秋にかけて、室戸台風第2室戸台風という名を聞く機会も多いので、猛烈な天気が連想される地名でもあります。

しかし、2度の訪問時の景色は、幸いにも台風から連想するイメージとは結びつかないほど穏やかで、厳しい天候とはまた別の、室戸岬の風景の一面を表しているんでしょうね。

2度目は、ちょうどいい時間で、水平線の夕日がとても感動的でした。

 

叶崎

岬に建つ叶埼灯台

 足摺岬と沖の島の間に突き出している岬で、カナエザキと読む。

 叶崎は、四国最南端の足摺半島の突端である足摺岬より知名度は低いのだが、「叶崎海岸を見ずして土佐風景を見たとはいえない」と、河東碧梧桐が言ったというほどの、風光明媚な岬である。

 地図で見ると、足摺岬と沖の島の間の海岸線はM字型になっているが、その真ん中の出っ張りにあたるのがこの叶崎で、天気の良い日には、M字の両端にあたる足摺岬と沖の島が東西に見えるという。

 岬に建つ灯台は、叶埼灯台といい、北緯32度44分51秒、東経132度48分9秒に位置する。灯台の初点灯は、明治44年(1911)8月20日と、足摺岬灯台よりも早いのだが、これは、叶崎沿岸を航行する船舶が多かったためという。また、明治期のレンガ造りの灯台で、かつ現役であるため、Dランクの保存灯台となっている。

 M字の真ん中の出っ張りということで、地図を見て魅力を感じ、休憩がてら立ち寄ってみたが、訪れた日は、天気がそれほど良くなかったため、残念ながら期待するほどの爽快な眺望は得られなかった。

 だが、灯台に続く遊歩道の左右は断崖絶壁で、周辺の海岸は太平洋の荒波が削ったゴツゴツした岩場が続いており、太平洋に面と向かっているというのを主張するかのような、荒々しさがある岬だ。これはこれで、爽快な風景ともひと味違って、なかなか趣があった。

 

最終訪問日:2004/9/10

 

 

比較的マイナーな灯台のためか、昼間は人があまり訪れていない様子でした。

でも、灯台へ続く遊歩道の手前の休憩所には、ゴミ箱にビールの空き缶や花火の燃えカスなどがあったので、地元の若者がたむろする場所なのかもしれないですね。

 

桂浜

雨の桂浜

 高知市の南に位置する、浦戸湾の入口にある浜。日本の渚百選のひとつ。

 桂浜とは、正確には、浦戸湾の蓋となるように東へ張り出す浦戸半島南東端の龍王岬と、そのすぐ北東の龍頭岬の間にある本浜を指し、龍王岬の西の西浜や、龍頭岬の北側の東浜は含まれない。

 太平洋の黒潮が打ち寄せる桂浜という構図は、高知のイメージの象徴的なものとして、ポスターやパンフレットでお馴染みだが、江戸時代は、高知城下への海鮮品を供給する重要漁場だった。黒潮に乗ってやってきた鯨を、桂浜で捕らえる絵図も残っており、はるか昔からそんな営みがあったことがわかる。

 また、古くから月の名所として知られ、詩句によく登場する場所であり、桂浜公園となった現在でも、水族館や桂浜の後背の丘の坂本竜馬の立像など、周辺に観光名所が多い。あまり知られていないところでは、長宗我部元親が居城とした浦戸城跡や、幕末に造られた浦戸砲台場跡などの史跡もある。

 ちなみに、風光明媚な浜ではあるが、外洋に面して波や潮流の変化が激しいため、遊泳は禁止されているという。また、昔は捕鯨の名所だったことから、最近ではホエールウォッチングなども行われているようだ。

 雄大な太平洋と、湾曲を描く海岸線の砂浜は組み合わせは、浜の景色としては非常に秀逸で、桂浜には、高知に来た際に必ず見ておきたいと思わせるような情景がある。

 

最終訪問日:2004/9/10

 

 

まさに高知の象徴とも言うべき浜です。

訪れた時は、2度とも秋だったので、南国らしい雰囲気は少なかったですが、夏には高知市内外の人々がたくさん来るんでしょう。

一度、夏の桂浜というのも見てみたいですね。

 

足摺岬

足摺岬灯台と僅かに弧を描く水平線

 東西に広がる高知県の西の南端にあたる、足摺半島の突端の岬。かつては足摺崎と呼ばれていたが、昭和40年(1965)に、世間一般に呼ばれていた呼称を追認し、足摺岬へと正式名称が変更された。

 足摺岬は、岬全体では四国最南端であるが、半島突端部の灯台が最南端ではなく、やや西の堂ヶ森の南方の長碆と呼ぶ辺りが最南端である。これは、足摺半島が南東方向に伸びているためで、地図で確認してみると、僅かな差が解りやすい。

 足摺岬の突端部は、約60mの断崖で、その上にロケット型のデザイン灯台である高さ約18mの足摺岬灯台があり、北緯32度43分27秒、東経133度1分13秒に位置している。初点灯は大正3年(1914)4月1日と、岬の突端ながら比較的遅いが、光度は200万カンデラで、光達距離は38kmもあり、日本最大級の灯台のひとつという。

 この灯台の周辺は、遠目では、いかにも陸地の果てという感じが漂っているのだが、周辺に足を進めてみると、遊歩道や展望台などが整備されており、この辺りは、やはり著名な観光地ならではといったところだろうか。展望台からの、270°にもなる水平線の景色も、周囲から突き出した足摺岬らしい景色だ。また、四国八十八ヶ所巡礼の第三十八番札所の金剛福寺も、ここにある。

 桂浜と室戸岬に像が建てられている、坂本竜馬中岡慎太郎は非常に有名な志士だが、この足摺岬には、同時代の人物としてジョン万次郎こと中浜万次郎の像が建てられている。

 江戸時代末期から明治初期にかけて生きた高知県の人物の中では、万次郎の知名度はそれほど高くないのだが、幕末史に西洋の知識や技術を伝播した人物として、大きな足跡を残したのは間違いない。土佐の形を象徴する、桂浜と室戸岬足摺岬の3つの頂点の一角に、武市半平太板垣退助後藤象二郎ではなく、ジョン万次郎が据えられたというところに、その出身地での評価の高さが窺えた。

 

最終訪問日:2004/9/10

 

 

訪れた日は、岬へ行く道中で霧が出るなど、生憎の曇天でしたが、なんとか水平線を拝む事ができました。

実際に訪れてみて感心したのは、お遍路さんはこんな端の端まで巡礼していくのかということ。

むしろ、果て感が巡礼には必要なのかもしれませんね。