Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

都道府県別-三重

三井家発祥地

呉服屋を興して江戸時代に豪商となり、明治時代には三井財閥を築いた三井家の発祥地。 商家である三井家は、他の江戸時代の多くの商家と同様に武家の出自で、そもそもの本貫の地というのは、この伊勢ではなく近江であったとされ、藤原道長の六男長家の流れで…

伊勢神宮内宮 (皇大神宮)

伊勢神宮は、そもそもは天皇家の一族が代々祭祀を執り行っていた天皇家の宗廟であり、正確には、ただ「神宮」と呼ぶ。キリスト教における大文字のGodが、一般名詞ではなく唯一の神を指す固有名詞として扱われるというのに似ているだろうか。 この単なる神宮…

関宿

かつて東海道の宿場町として栄えたところで、その町並みが今も残っている。 まだ世界の狭かった古代の日本では、鈴鹿山脈が、統治地域の中核である畿内周辺と辺境と見なされた東国を隔てていた壁であり、その東南麓には、境界を防衛、監視する施設として関所…

おはらい町

伊勢神宮の内宮の入口である宇治橋に繋がる鳥居前町。観光地として有名なおかげ横丁も、この鳥居前町の一角にある。 伊勢神宮は、そもそもは天皇家の宗廟であり、個人が崇拝する対象ではないのだが、中世以降は神領が豪族に押領されるなどで経済的な困難が続…

長島温泉

揖斐川と木曽川に挟まれた輪中である長島の最も海に近い部分にあり、遊園地やプールも併設されている日本最大級のスパリゾートとして、中京地区を中心によく知られている温泉。 長島温泉自体の歴史としては、天然ガスの試掘中に湧出したのが最初で、昭和38年…

熊野温泉

入り組んだ海岸線が多い紀伊半島の中で、新宮市から熊野市にかけては、例外的になだらかな七里御浜という海岸線が続いているが、その七里御浜の海岸線の北端から、やや山側に入ったところにある温泉。 以前は、「かんぽの宿 熊野」という簡易保険の加入者を…

峯城

峯城二ノ丸の腰郭らしき削平地にある標柱 築城は、関盛政の五男政実によると伝えられ、築城年代は、南朝方年号の正平年間(1346-70)、または北朝方年号の貞治6年(1367)という。 政実は、この城を築いて峯を称し、峯氏の始祖となるのだが、そのきっかけは、父…

丸山城 (伊賀)

丸山城本丸と城址碑 伊賀の地は、戦国時代に至っても大名化した家が存在せず、地侍と呼ばれる小地主が割拠して支配する土地であった。彼らは、生き残るために特殊な技術を編み出し、諸国を歩いて情報を得、時には他の大勢力に雇われて特殊工作を行ったという…

松坂城

表門の桝形と重層的な石垣 近江国日野から松ヶ島城へと入部した蒲生氏郷が、新たな統治の拠点として築城した平山城。 現在は松阪の字が使われているが、当初は松坂と称しており、松阪と表記されるようになったのは明治の中頃からである。坂の字は主君秀吉の…

松ヶ島城

松ヶ島城のあったこの伊勢湾沿いの場所は、古くは保曽久美や細首、細汲と書き、伊勢参宮の古道が通る陸海の交通の要衝であった。 城が歴史に初めて登場するのは、松ヶ島城の名ではなく、前身の細首城、もしくは細頸城としてで、信長が北伊勢に侵攻した永禄10…

名張城 (名張藤堂家館)

戦国時代、名張には土豪の小さな城砦があったといい、当時の城主として服部保章という名も見えるが、真偽は定かではない。ただ、この名張周辺は、世間では伊賀忍者として名が通っている伊賀の地侍集団の一派、服部氏の所領だったらしく、服部氏に繋がる武将…

鳥羽城

鳥羽の地は、戦国時代までは志摩十三地頭の筆頭であった鳥羽氏が治めていた。鳥羽氏は、後鳥羽天皇の末裔を称したとも、本姓は橘氏であったともいわれ、北朝の命で泊浦御厨の警固のために志摩へ下ったのがその最初という。戦国時代の当主である鳥羽主水は、…

津城 (安濃津城)

津城西ノ丸にあった解説板 現在の津市の中心部は、古くは安濃津といい、城も安濃津城と呼ばれていた。 最初に津城を築いたのは、伊勢長野氏の一族である細野藤敦か、その父藤光で、永禄年間(1558-70)のことという。恐らく、細野氏が本拠としていた安濃川上流…

田丸城

田丸城天守台の入口は埋門状かつ階段が四分の一円状でかなり特徴的 伊勢神宮やその門前町である山田、関連する湊である大湊を抑える役割を持った城で、南北朝時代に北畠親房・顕信父子によって築かれた。南北朝時代は玉丸城、以降の時代は田丸城と表記された…

霧山城 (霧山御所)

霧山城本丸の台上に建てられた城址碑 戦国大名化した三国司家のひとつに数えられる北畠氏の城で、居館であった多気御所の詰城にあたる。公家出身という由緒ある家柄であったため、多気御所と同じく尊称して霧山御所とも呼ばれていた。 北畠氏の出自は、源氏…

北畠氏館 (多気城・多気御所)

三国司家のひとつである北畠氏が、累代に渡って居した館で、多気城や多気御所とも呼ばれる。ちなみに、多気はタキではなくタゲと読む。 北畠氏の出自は、源氏である。と言っても、武家の棟梁となった清和源氏ではない。村上天皇の皇子の系統が臣籍降下して源…

神戸城

神戸はコウベではなくカンベと読む。他に同じ漢字でゴウドなどと呼ぶ場所もあるが、いずれも神社の領する土地や神社に仕える神人の住む土地であったことからの名である。この神戸城周辺は、伊勢神宮の神領であったためという。 この地に城が築かれたのは、天…

亀山城 (伊勢亀山城)

亀山城址碑と多聞櫓 この亀山には、文永元年(1264)に平実忠が築城した亀山古城があり、実忠はその城を本拠として関氏を名乗ったという。その子孫は周辺に庶族を分立して勢力を蓄え、南北朝時代に南朝に属し、戦国時代には同じ南朝方であった伊勢国司家の北畠…

大河内城

城内に建てられた大河内合戦四百年記念碑 北畠氏の一族である大河内氏の居城。 応永22年(1415)に、伊勢北畠氏の初代顕能の孫満雅が阿坂城に籠城した際、満雅がこの城を築いて弟顕雅を入れたのが最初という。満雅の挙兵自体はその前年で、挙兵の原因が、同19…

上野城 (伊勢上野城)

伊勢上野城解説板 分部光嘉が、長野氏の養子となった織田信包の命で築いた城。 この伊勢上野城一帯は、古くは鈴鹿市白子から津市にかけての栗真荘に含まれ、比較的早くから拓かれた土地であった。戦国時代の支配者は前述の分部氏で、分部氏の出自には、工藤…

伊賀上野城

木造で再興された伊賀上野城の大小模擬天守 伊賀の支配拠点だった城で、国名を冠した伊賀上野城として知られている。 天正9年(1581)の天正伊賀の乱で、伊賀忍者としても活躍した伊賀の地侍達は、ことごとく信長に敗れたが、その戦いで主戦場のひとつとなって…

安濃城

安濃城解説板 弘治年間(1555-58)に細野藤光によって築城された平山城で、中伊勢地域最大の城である。 細野氏は、中伊勢を支配していた長野氏の一族であり、宗家である長野氏自体は、有名な曾我兄弟の仇討ちによって殺された藤原南家流の工藤祐経の三男祐長が…

阿坂城

阿坂城案内板 白米流しの伝説から白米城とも呼ばれるが、現地案内板によると、大きく南北2つある郭群のうち、北の郭群を椎ノ木城、南の郭群を白米城とも呼ぶようだ。また、これとは別に北東の峰の先に高城、南東の峰の先に枳(からたち)城という出城を持って…