Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

都道府県別-滋賀

玄蕃尾城

玄蕃尾城解説板 柴田勝家が、賤ヶ岳の合戦の際に本陣を置いた城で、内中尾山城ともいう。区分としては山城にはなるのだが、城内の高低はかなり少ない平坦な城である。 天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で信長が斃れた後、同月27日の清州会議で秀吉と勝家が…

柳ヶ瀬トンネル

明治17年(1884)4月16日に開通した、初期の北陸本線の鉄道トンネルで、平成15年(2003)に土木学会選奨土木遺産にも選ばれている。全長は1352m。 柳ヶ瀬トンネルは、北陸本線のトンネルとして長く使われ、昭和32年(1957)に北陸本線が深坂峠経由に変更された後は…

琵琶湖大橋

湖岸道路と呼ばれる湖東の県道559号線と、湖西の旧国道161号線である県道558号線を結ぶ橋で、滋賀県道路公社が管轄する15.4kmの琵琶湖大橋有料道路に含まれ、橋の部分は国道477号線になっている。大きく見れば、名神高速や国道8号線、そして守山に繋がってく…

比叡山ドライブウェイ

大津市街の西北、かつて織田信長が京へ入る際に使用したという山中越えに通じる宇佐山付近から、比叡山山頂までの南北を結ぶ全長8.1kmの観光道路。 比叡山は平安時代に最澄が延暦寺を開山して以降、京の鬼門にあたることから、王城の守護として発展し、大正…

瀬田の唐橋

琵琶湖の南、湖水が瀬田川へと流れ出てすぐの場所に架かる橋で、瀬田橋とも瀬田の長橋とも呼ばれ、古くは勢多の字が当てられていた。 いつ頃に架けられたかはよく分からないが、日本書紀にも登場するほど古くからあり、琵琶湖と瀬田川の境目が、有史以前から…

奥琵琶湖パークウェイ

国道303号線の大津市西浅井町岩熊から菅浦半島方向へ分岐し、葛籠尾崎、菅浦近くを通って大浦までを繋ぐ県道512・513号線が、奥琵琶湖パークウェイである。 開通は、昭和46年(1971)9月29日で、当初は滋賀県道路公社が管轄する有料であったが、平成元年(1989)…

奥比叡ドライブウェイ

琵琶湖大橋の西南、仰木から比叡山山頂までを結ぶ全長11.8km道路で、開通は、比叡山ドライブウェイが整備された8年後の昭和41年(1966)5月1日。 京都と滋賀の県境にある比叡山は、東西からロープウェイで麓と繋がってることから解るように、東西方向には険し…

近江大橋

琵琶湖の南、瀬田川へと通じる場所に架かる橋。 琵琶湖と瀬田川の境目付近は、古代より東国から京に通じる街道の要衝として発展し、かつては瀬田の唐橋が架かり、現在でも国道1号線と名神高速、京滋バイパスといった東西を結ぶ動脈が密集している場所である…

琵琶湖博物館

瀬田辺りから湖東の湖岸道路を北へ走っていると、遠くからでも巨大な建物が確認できる。全体が公園化されている烏丸半島に建つ、その巨大な建物が琵琶湖博物館で、平成8年(1996)10月20日に開館した。 琵琶湖は、約400万年前に現在の三重県伊賀市付近で誕生し…

彦根城博物館

彦根市の市制50周年を記念し、昭和62年(1987)2月11日に復元された彦根城表御殿の内部を使用した博物館である。 彦根城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の直後の落城によって荒廃した佐和山城に代わり、東山道や北陸方面と、京や豊臣氏が健在だった大坂との交…

長浜鉄道スクエア

初代長浜駅舎 明治15年(1882)3月10日に完成した、現存する日本最古の駅舎である国鉄長浜駅の旧駅舎がJRの線路のすぐ横にあり、その裏側に鉄道文化館が建てられている。 長浜駅は最初、北国脇往還沿いに敷かれていた路線で関ヶ原と繋がっており、東山道と北陸…

国友鉄砲ミュージアム

手に取ることができる火縄銃 戦国時代に火縄銃の生産地として有名だった国友にある鉄砲資料館で、昭和62年(1987)10月10日の開館。訪れた当時は国友鉄砲の里資料館だったが、現在は国友鉄砲ミュージアムと改称されている。 戦国時代の天文12年(1543)に鉄砲が…

朽木資料館

朽木資料館 朽木谷に関する歴史や民俗資料を展示する資料館。 訪れた時は、まだ朽木村が存在していたため、朽木村郷土資料館という名前だったが、平成17年(2005)に高島郡の大半が合併して高島市が誕生したことにより、現在の名称となった。 中世の鎌倉時代か…

近江八幡市立資料館

城下町から商人の町に転じた町並みが保存されている近江八幡の、その歴史や民俗に関する資料が展示されている複合資料館で、郷土資料館と歴史民俗資料館を合わせて市立資料館としている。それぞれ単館で入館も可能だが、旧西川家住宅やかわらミュージアムと…

安土城天主 信長の館

織田信長が築城した幻の安土城の東南に位置する、公共文化施設が集まって近江風土記の丘や文芸の郷と名付けられた一帯に建っているテーマ館で、名前の通り安土城天主がそのテーマである。開館は平成6年(1994)。 平成4年(1992)にスペインで開催されたセビリア…

安土城考古博物館

織田信長が戦国時代の天正7年(1579)に築城した、正確な姿が分からず幻ともいわれる安土城の東南に位置し、その安土城と、一説に安土城が攻められた時の非常時の城として考えられていたともいう観音寺城の、ちょうど間に建っている歴史博物館。周辺は、近江風…

安土城郭資料館

JR安土駅の南東側すぐのところにある、主に安土城の天守閣や安土町の中世に関する歴史資料を集めた資料館。いつ頃に開館したのかは、調べたが分からなかった。 市町村合併前の安土町時代は、安土町城郭資料館という名であったが、安土町が平成22年(2010)3月2…

余呉湖

天女伝説の残る静かな湖。古代にはヨゴノウミと呼ばれた。 琵琶湖の北岸から北へ、古戦場で有名な賤ヶ岳を越えたところに位置し、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では、主君である柴田勝家を逃がすべく毛受兄弟が奮戦して討死した場所で、天女伝説を持つ湖とし…

琵琶湖

周囲約235.2km、面積669.26km2、最大水深103.58mという日本最大の湖で、ラムサール条約登録湿地でもある。 断層湖である琵琶湖は、古代より存在し続けたという、世界でも20ほどしかない古代湖のひとつで、日本では唯一の古代湖であり、400万年前に現在の三重…

虎御前山陣所跡

虎御前山陣城布陣図 元亀元年(1570)の姉川の合戦で勝利した信長は、小谷城の南東約9kmにあって浅井領を南北に分断することが可能である横山城を奪取し、秀吉を城番にしていたが、立ち枯れるように佐和山城主磯野員昌の降伏に追い込むなどして南部を平らげ、…

垂水斎王頓宮跡

垂水斎王頓宮跡に祀られた小さな社 斎王とは、斎皇女(イツキノミコ)とも呼ばれ、天皇家の宗廟である伊勢神宮の祭主のことであり、後には賀茂神社にも同じく祭主が置かれ、そちらは特に斎院と呼ばれた。 斎王は、天皇家の宗廟に対する祭祀を執り行うため、当…

賤ヶ岳古戦場

天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の後、信長の実質的な後継者をの地位を巡り、柴田勝家と羽柴秀吉の間で紆余曲折があったが、最終的にその帰趨を決する戦いとなった翌同11年(1583)4月の賤ヶ岳の合戦が行われた古戦場。 本能寺の変で信長とその嫡男信忠が横…

紫香楽宮跡

紫香楽宮の一角を成した甲賀寺の礎石と境内跡 シガラキノミヤアトとも、シガラキグウシとも呼ばれる紫香楽宮の遺跡で、国の史跡に指定されている。 最初、紫香楽宮の場所には、聖武天皇が離宮を造営していた。この聖武天皇は、放浪と遷都を繰り返した天皇と…

甲賀流忍術屋敷

甲賀流忍術屋敷 俗に言う甲賀忍者であった、甲賀五十三家の筆頭格望月出雲守の邸宅として、元禄年間(1688-1704)に建てられた建物。忍者の住居としては、日本で現存する唯一の屋敷という。ちなみに、甲賀流という流派は無く、甲賀地方に伝わる忍術全体を指し…

旧西川家住宅

江戸時代中期に建てられた豪商の店舗兼住居で、重要文化財に指定されている典型的な近江商家。内部には江戸期の商人が使用した道具などが展示され、商家の資料館のようになっていた。入場料は、単館で見学もできるが、市立資料館やかわらミュージアムとの共…

織田信長墓

安土城の二ノ丸跡にある織田信長の廟所。本能寺の変の翌年の天正11年(1583)2月、秀吉によってゆかりの品々が納められて建立された廟所で、信長公本廟ともいう。 尾張国守護代織田家には、室町時代以降に並立した清洲織田家と岩倉織田家の二家があり、信長は…

石田三成出生地

石田三成の像と出生地の碑 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、事実上の西軍の総大将だった石田三成の出生地。石田正継の三男として生まれたが、誕生日は詳しく伝わっておらず、永禄3年(1560)とだけわかっている。 出自である石田氏は近江の豪族で、地理的関係…

姉川古戦場

織田氏と浅井氏が、それぞれ徳川氏、朝倉氏と連合軍を形成し、元亀元年(1570)6月28日に戦った合戦の古戦場。ちなみに姉川の合戦というのは徳川家における呼称で、浅井家では野村合戦、朝倉家では三田村合戦と呼んでいた。 同年4月の織田軍による朝倉攻めの際…

比叡山延暦寺

比叡山延暦寺根本中堂 最澄が開いた天台宗の総本山。 最澄が比叡山を開いたのは、延暦7年(788)で、自作と伝えられる薬師如来立像を本尊として、現在の根本中堂の地に一乗止観院という庵を建てたのがその最初だが、もともと比叡山というのは、自然信仰の対象…

多賀大社

多賀大社の神門と太閤橋 延喜式に小社と記された式内社であり、神社本庁の定める、いわゆる別表神社のひとつで社格も高い。 社伝によると、伊邪那岐大神と伊邪那美大神が、国生みのの後に神社の東にある杉坂山に降臨し、多賀の地に静まったのがその由来とい…