Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

紫香楽宮跡

紫香楽宮の一角を成した甲賀寺の礎石と境内跡

 シガラキノミヤアトとも、シガラキグウシとも呼ばれる紫香楽宮の遺跡で、国の史跡に指定されている。

 最初、紫香楽宮の場所には、聖武天皇離宮を造営していた。この聖武天皇は、放浪と遷都を繰り返した天皇として有名で、天平12年(740)に奈良の平城京を離れ、その年末には恭仁京の建設を始めたが、その建設中の同14年(742)に、この紫香楽にも離宮の建設を始め、度々行幸もしたようだ。

 そして、翌年には総国分寺として甲賀寺へ大仏を建立する旨を発願し、同17年(745)には紫香楽宮から名を改められた甲賀宮へと遷都しようとしたが、火災や地震などもあって人心が服さず、都は平城京に戻り、結局、遷都は実現しなかった。

 史跡の碑が建っている場所は、正確にいえば、都の一角を成す前述の甲賀寺大仏殿の跡で、その礎石が無数に残っており、当時の仏教寺院の建物の配置や大きさがこれほど明確に分かるものはない。ただ、伽藍の配置は東大寺とほぼ同じであるが、その境内の大きさは3割程度しかないという。では、本当の紫香楽宮はどこにあったかというと、この遺跡の北にある宮町遺跡がそうであると考えられており、大量の木簡が出土したことからも、ほぼ間違いないようだ。

 いずれにせよ、最近の調査では、紫香楽宮は予想されていたよりももっと大きかったらしく、また、聖武天皇の放浪についても、天武天皇の事跡を追って国家を引き締めるためであったというような、違う人物像を描く異説も出てきており、今後の発掘調査に期待がかかる。

 紫香楽宮が廃れた後、甲賀寺は国分寺として再利用された可能性が高いが、それ以外は活用されなかったため、残された遺構も自然に還ったようだ。このため、田園風景が続く場所となっており、史跡の表示が無ければ、ここに遷都寸前の都があったとは気付かないだろう。明確なのは甲賀寺の礎石のみで、丘陵の樹林の中に朧気ながらその痕跡を見ることができる。

 

最終訪問日:2001/8/27

 

 

木々の間から覗くと、かつての伽藍を示す礎石が一定間隔で並んでいて、陽炎のように伽藍が見える気がしました。

お城とはまた違った迫力を感じましたね。