Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-山城

小磯城

小磯城の候補とされる大磯城山公園の案内図 小磯城に関して伝わる事跡は少なく、文明8年(1476)に上杉氏に対して叛乱を起こした長尾景春の家臣越後五郎四郎が、この城に籠もっていたとされ、翌同9年(1477)年3月に太田道灌に攻められて落城したというのが、唯…

河村城

築城時期は古く、平安時代末期に河村秀高によって築かれたという。 秀高は、藤原秀郷の後裔波多野義通の弟であるが、この河村郷を領したことから地名を名字にしたとされる。だが、河村郷は平安時代には史料に見られないことから、「駿河記」などから、秀高は…

王城山城

天王山城とも呼ばれる山城。 この城の来歴は全く判っておらず、「新編相模国風土記稿」に「高さ四丈城跡と伝ふ」とのみある。 相模湾沿いは、丘陵が海に張り出している場所が幾つもあり、この大磯付近もそのひとつだが、街道上の監視や警備のため、在地の勢…

石垣山城

天正18年(1590)に、秀吉が小田原征伐の際の陣城として築いた近世山城。築城の経緯から、石垣山一夜城などとも呼ぶ。 小田原征伐の発端は、北条氏による天正17年(1589)の名胡桃城の奪取である。この名胡桃城がある沼田地域は、上杉、武田、北条三氏の争奪地域…

横地城

横地氏の居城で、金寿城ともいう。 横地氏は、八幡太郎源義家の庶子家永(家長)が祖といい、永承6年(1151)に安倍氏鎮定の命を帯びて奥州へ赴く父頼義に従った義家が、大雨で見付に滞在した際、在地の相良荘司藤原光頼の娘との間にできた子と伝わる。 その子は…

山中城

北条流築城術が、これでもかというぐらい見られる山城。箱根路の防衛拠点であった。 山中城の築城は、永禄年間(1558-70)とされるが、天文23年(1554)に甲相駿三国同盟の一角として北条氏康の娘が今川義元の嫡子氏真に嫁いでいるため、伊豆と駿河の間は安定し…

花倉城

花倉の読みとしては、日本郵政の地名データベースから引くとハナグラとなっているため、城名も濁るのが正解かと思われる。ただし、当時は葉梨城や葉梨の城と呼ばれていた。 築城年代は不明だが、今川氏2代基氏の五男で、駿河と遠江の守護に任じられた範国へ…

白山城

天方九ヶ村を領した天方氏の城。 天方を含む飯田荘は、鎌倉時代より首藤山内氏が地頭を務め、その庶流が天方に土着し、地名を姓とした。その時期は、南北朝時代の14世紀後半頃という。 天方氏は、当初は白山城から三倉川を挟んだ北向かいの天方本城を居城と…

韮山城

伊勢盛時こと、北条早雲が本拠とした城。 韮山城の築城は室町時代で、堀越公方足利政知の重臣外山豊前守が文明年間(1469-87)に築いたとされる。城から狩野川沿いの堀越御所までの距離は、1kmちょっという近さで、立地的に考えて、豊前守は政知に信頼されてい…

下田城

下田城の築城時期は不明だが、延元2年(1337)の古書に本郷氏島城主志水長門守とあり、この本郷は稲生沢川の下流域に現在も残る地名で、氏島城が鵜島城、すなわち下田城のことであるという。このことから城は、南北朝時代には既に在ったようだ。 その後、城の…

蒲原城

蒲原城南郭の城址碑 海岸に沿って走る東海道と富士川の川筋の街道を押さえる、交通の要衝にある城。 蒲原城を築城したのは誰なのか、はっきりとしていないが、一説に土豪の蒲原氏であるとも、駿河守護の今川氏の一族であるともいう。 蒲原氏の出自は、入江氏…

狩野城

狩野城案内板 狩野氏が本拠とした山城。 この狩野城を居城とした狩野氏は、藤原南家流工藤氏の分かれである。 工藤氏の始祖は、木工助であった藤原為憲で、木工助と藤原で工藤を称した。為憲は、駿河や伊豆などの権守を務め、その孫維景や維景の子維職は官職…

勝間田城

勝間田氏が本拠とした城。ただし、創始期からの本拠ではなく、室町時代からの城である。 勝間田氏は、八幡太郎源義家と相良荘司藤原光頼の娘との間にできた庶子家永(家長)を祖とする横地氏から分かれた支族で、家長の次男十郎が勝間田の地名を姓としたことが…

天方本城

麓の天方本城案内板 天方9ヶ村を支配した天方氏の居城。 天方氏は、首藤山内氏の流れで、天方に住して地名を名乗ったという。 首藤山内氏は、藤の字から解るように藤原氏を称しており、その祖は藤原秀郷とも藤原師尹ともいわれるが、藤原氏は仮冒で実際は守…

天方城 (天方新城)

天方城本郭に建つ城址碑 天方氏が14世紀の末期頃に築いた城も当時は天方城と呼ばれており、区別する場合は、そちらを天方本城、こちらを天方新城と呼ぶ。 天方9ヶ村を支配した天方氏は、15世紀末期の今川氏の遠江への伸張以降、今川家臣として活動していた。…

足柄城

足柄城本丸に建てられた城址碑と富士山 箱根北側の峠である足柄峠にある城。静岡県と神奈川県の県境に跨る城であるが、主郭部は静岡県側に造られている。 足柄峠は、かつては足柄坂と呼ばれ、平安時代には箱根の山塊を越える東海道の主街道だった。そのため…

要害山城 (甲斐)

要害山の麓にある碑 要害城や、麓の積翠寺の名を取って積翠山城とも呼ばれる山城で、甲斐守護武田家の居館躑躅ヶ崎館の詰城。 躑躅ヶ崎館は、武田家の館として非常に有名だが、それより前の守護所は石和にあった。 叔父信恵を破って武田氏の惣領となり、甲斐…

能見城

能見城は、ノウミではなくノウケンと読む。 能見城築城には3つの説があり、そのひとつが穴山氏築城説である。 穴山氏は、甲斐源氏武田氏の5代信武の五男義武が、能見城周辺の逸見郷穴山村を領して地名を称し、穴山氏の祖となったという。しかし、これには異…

須沢城

須沢城は、武田信玄が治水のために流路を現在の川筋に変えたとの伝承が残る御勅使川の北側にある。この御勅使川は甲斐でも有数の暴れ川で、氾濫による流路の変更が幾度もあり、現流路を含めて5本の流路が確認されているという。また、暴れ川が運ぶ砂礫は扇状…

勝山城 (郡内勝山城)

勝山城本丸に建立されている東照宮と僅かに見える本丸の碑 勝山城というのは各地にあるため、郡内勝山城や都留勝山城とも呼ばれる。 鎌倉時代始め頃からこの郡内地方を統治したのは、武蔵国を本貫とする平良文流の坂東八平氏秩父党の小山田氏であった。 小山…

岩殿山城

武田家臣小山田氏の詰城。岩殿城ともいう。 岩殿山の歴史は、平安時代の9世紀末頃に始まり、この巨大な岩山に天台宗の岩殿山円通寺が開かれ、やがて門前町を形成するほど栄えた。天台宗や真言宗は中国の山岳仏教の系譜を継いでいるため、古来の山岳信仰と習…

平賀城

平賀城遠景 平賀の地は、新羅三郎義光の四男盛義が、平賀郷を本拠として平賀冠者と呼ばれたため、平賀氏の本貫地となった。 平賀城は、築城年代は不明ながら、その盛義の子義信によって築かれたという伝承を持つ。 義信は、前述のように河内源氏の嫡流に近い…

妻籠城

妻籠城登山口と城址碑 妻籠城の築城者や築城の時期ははっきり判っていないが、伝承では、木曾義仲が上洛する際に築いたとも、足利尊氏に仕えた木曾家村が築いたとも伝えられている。 城は、室町時代にはすでにあったとされていることから、実際のところは、…

高遠城

築城された年や築城者は諸説あってはっきりしないが、代々居城としていた高遠氏が築城したとみるのが妥当なところだろう。 高遠氏は、木曾氏の支族との説もあるが、末期の継宗や頼継が諏訪氏を名乗っていることから、諏訪一族という説に説得力がある。 諏訪…

真田本城

現地には真田氏本城とあるが、別に松尾城とも呼ばれ、上田城築城以前の真田氏の本拠城に推定されている。ただし、史実や遺構などで、本拠城が裏付けられているわけではない。 この城を築城したのは、真田幸隆(幸綱)とされていたが、発掘調査によって、鎌倉時…

桑原城

桑原城は、南東2kmにある諏訪氏の本拠上原城の支城だが、上原城を焼き払って桑原城に撤退したという諏訪頼重の最後の行動から、一説に桑原城がその頃の本城であったともいう。高鳥屋城とも呼ばれ、戦国大名としての諏訪氏が実質的に滅んだ際の城でもある。 …

海ノ口城

若き日の武田信玄(晴信)が、初陣で武功を挙げた城として有名な山城で、鳥井峠を扼すことから、別名を鳥井城ともいい、海野口城と書かれることもある。ちなみに、現在はウミノクチと読むが、往時はウンノクチと呼んでいた。 現地の碑には、文安・宝徳年間(144…

内山城 (信濃)

傾いていた内山城本丸の城址碑 永正年間(1504-21)に、大井玄岑が築城したいわれる山城。ただし、玄岑が築城したのは、内山城から尾根筋を伝った東にある内山古城ともいい、これが本当であれば、後に一帯を支配した武田氏による築城の可能性が高くなる。 大井…

上原城

上原城入口にある城址碑 諏訪大社上社大祝であった諏訪氏の居城。 古代より続く諏訪氏の出自には、複数の説がある。古事記には、大国主命の国譲りの際に、その子建御名方神が敗れて科野(シナノ)の州羽(スワ)の海に落ち延びて助命されたとあり、諏訪氏はこの…

有賀城

有賀城本丸の城址碑と解説板 鎌倉時代に、諏訪神家一党三十三氏のひとつとして名前の挙がる諏訪一族の有賀氏が築いた山城で、承久年間(1219-22)の築城という。有賀は、アリガではなくアルガと読む。 城が築かれたとされる前後、諏訪湖西岸の岡谷の辺りに有賀…