お城-山城
土佐七雄のひとつに数えられた津野氏が、累代に渡って居城した山城。半山(ハヤマ)城ともいう。 津野氏は、伝承によれば、史上最初の関白とされる藤原基経の次男仲平の子経高を祖とする。 経高は、その羽振りの良さを妬んだ同族に謀反の罪を着せられ、延喜10…
土佐七雄と呼ばれる有力国人のひとつ、大平氏の居城。 蓮池城は、この大平氏が築いたのではなく、平家の有力家人であった近藤家綱が、嘉応2年(1170)に築城したものと伝わる。 家綱は、地名から蓮池と名乗り、平家に反逆する可能性のあった源希義を討つなどし…
現地の案内板や地図には、波川玄蕃城とあるが、当時は波川城や波川小研城、葛木城と呼ばれていたようだ。ちなみに、波川はハカワと読む。 築城は、現地案内板によれば、天正元年(1573)頃に築かれたとあり、築城者は、長宗我部元親の妹婿であった波川玄蕃頭清…
三国司のひとつ、土佐一条家の詰城。 一条家は、公家の中でも最上位にあたる、関白や摂政を出す五摂家のひとつだが、応仁元年(1467)からの応仁の乱で京が荒廃すると、翌年に教房は一条家の荘園があった土佐へ下向した。これには、土佐七雄のひとつである大平…
南麓の秦神社の境内に建つ解説板 長浜城の南で繰り広げられた戸ノ本の合戦は、長宗我部元親の初陣として知られているが、その前哨戦である長浜城攻防戦で知られる山城。具体的な築城時期は不明だが、本山氏によって築かれ、その家臣大窪美作守が城主だったと…
須崎城のある城山の東南中腹にある城山公園の全景 土佐七雄のひとつとして姫野々城を本拠としていた、津野氏の支城であったという。だが、築廃城時期や城主などの詳細は判っていない。 津野氏は、その出自や系図、土佐入国の経緯など、不明な点が多く、藤原…
天正元年(1573)に、長宗我部元親の家臣であった久武親信が佐川一帯を与えられ、それまでの一帯の拠点であった松尾城の水不足を嫌い、新たに築城したという。 佐川一帯は、南北朝時代初期には佐河四郎左衛門入道が支配していたと見られ、四郎左衛門入道が、今…
久礼中学校の校門左手にある碑と久礼城遠景 土佐の国人佐竹氏の居城で、築廃城時期不明の山城。 土佐佐竹氏は、近世大名としても有名な常陸佐竹氏の庶流である。入部年代としては、戦国時代という説もあるが、それ以前から活動が見えることから、承久3年(122…
土佐七雄に数えられた、有力国人吉良氏が居城とした山城。弘岡の地を治める城であるため、弘岡城とも呼ぶ。 吉良氏は、三河が本貫の足利系吉良氏の庶流という説もあるが、同じ清和源氏の源希義の流れという説が一般的である。希義は、源義朝の五男で、頼朝の…
四国を統一した長宗我部家累代の居城。 長宗我部氏は、蘇我氏の部民である宗我部の末裔という説もあるが、一般的には、秦の始皇帝や、ローマである大秦、秦韓国がルーツという伝承を持つ渡来系の秦氏の末裔といわれる。 長宗我部氏の直接の祖は、聖徳太子の…
山間部から平野部へ進出した本山茂宗によって、平野部の本拠として築かれた山城。古くは重松城とも呼ばれた。 本山氏は、「土佐日記」に登場する八木康教の子孫と見られ、平安時代の昔から山間部である西峰に勢力を築いていた一族の裔で、本山氏に関する一次…
展望台の龍王の砦から内子市街を望む 伝承では、平安時代に越智喜多守が砦を築いたのが最初という。ちなみに、この越智氏の庶流だった玉澄が、風早郡河野郷に住んで河野を称し、後に伊予守護となる河野氏の祖になったといわれる。 室町時代の応永年間(1394-1…
生子山城は、南北朝時代の細川氏侵攻時に、南朝方の越智俊村が設けた砦に始まるという。ただ、細川氏の伊予侵攻は幾度かあり、具体的にいつ頃の築城かはよく分からなかった。また、一説には、一条通村による築城という説もあり、後述の松木景村による築城説…
唐子浜の正面にある急峻な唐子山にある城で、国分城や府中城とも呼ばれる。 国分山城が築城された時期は明確でなく、南北朝時代の頃であるという。ただ、伊予国府から近いという地勢的な条件や、手頃な標高というのを考えると、それ以前から、国府を守護する…
海際の鷲尾山にある城で、仏法寺の仏堂を取り込んで築かれたため、仏殿城ともいう。 川之江城の築城は南北朝時代で、延元2年(1337)のことである。当時の伊予守護である河野通盛は、阿波や讃岐の細川氏に対する防衛拠点を欲しており、伊予の東口であるこの川…
金子氏代々の居城で、金子山城ともいう。 金子氏は、もともと武蔵七党の村山党の豪族で、桓武平氏である。平頼任が多摩郡村山郷を領して地名を称したのが村山党の最初で、その孫家範が入間郡金子郷に入って金子氏の祖となり、家範の子家忠は保元元年(1156)の…
来島海峡の西南、しまなみ海道を一望できる位置にある山城。現在は海山と書いてオミヤマと読む。 古くは、奈良時代に狼煙台が置かれ、西の半島の突端にある宮崎から、遠見山と呼ばれていたこの海山を経由し、唐子山付近の伊予国府まで狼煙が伝えられたという…
大除城解説板 敵を大いに払い除くという意から命名されたという山城。 大除城の築城年代は不明だが、愛媛県史では、久万山に跋扈した久万出雲入道を大野通繁・綱直兄弟が平定した、寛正5年(1464)前後と推測しており、この久万入道が築城したとの庄屋記録があ…
四国八十八箇所霊場の第八十五番札所となっている八栗寺の、すぐ南西側にあった山城。 庵治や牟礼を領した中村恒頼の居城で、八栗山の南麓にある田井城が天正8年(1578)に火災で焼失したため、より峻険な八栗山に築城したのが八栗城である。 ちなみに、当時の…
寒川氏が居城とした山城で、そのあまりの要害さから、昼寝しても落ちない城という意味で、昼寝城と呼ばれた。 東讃に勢力を張った寒川氏は、景行天皇の皇子である神櫛王の子孫という。神櫛王の子孫がやがて讃岐国造となり、さらにその末裔の千継なる人物が、…
引田城西櫓の石垣 百済を援護して出兵した白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に敗れた朝廷は、連合軍が日本にも侵攻してくるのを恐れ、西日本各地に城砦を築いた。高松の屋島にも天智天皇6年(667)に城が築かれたが、引田城に伝わる伝承では、この時に阿倍比羅…
南北朝時代以来、中讃の豪族長尾氏が居城とした山城。 南北朝時代の四国では、足利尊氏が建武の新政に叛旗を翻して敗れ、九州へと落ちた際、その一族であった細川一門が四国へと派遣されて現地の勢力を足利方へとまとめたことから、四国、特に阿波、讃岐、土…
虎丸の名の由来は、中腹に虎が伏せたような岩があったからとも、城を築いた年が寅年であったからともいわれ、落ち延びてきた護良親王を迎えるため、佐伯秀国が元弘2年(1332)に築城したという。ただ、護良親王がこの地に来たというのは、伝承に過ぎないようだ…
聖通寺城は、聖通寺山城や、宇多津にあるので宇多津城とも呼ばれるが、城址碑には平山城とあった。 城は、管領細川勝元に仕えて細川四天王のひとりに数えられた奈良元安により、応仁年間(1467-69)に築かれたとされる。 この奈良氏は、もともとは関東の御家人…
天霧城は、室町幕府の管領であった細川氏の重臣で、讃岐守護代を務めた香川氏の居城、詰城であった。 この香川氏の出自には、不明なところが多い。 大まかには、永保3年(1083)から始まる後三年の役に活躍した桓武平氏鎌倉景政の末裔というのが通説で、その孫…
蜂須賀氏治世下の阿波九城のひとつ。虎伏山にあることから、虎伏城とも呼ぶ。 鎌倉時代中期に、藤原氏系の脇氏がこの地に入り、後に城を築いて代々居城したとされ、文明年間(1469-87)頃には、脇権守仲房が居したという。だが、その城は掻揚げの土居構の城だ…
鳴門市撫養町にある山城で、現地では撫養城と表記されているが、徳島県のパンフレットには、市指定史跡として岡崎城とあり、南西麓の地名から林崎城とも呼ばれる。 築城の時期は不明だが、将軍足利義稙が撫養で没したというのが史料にあることから、大永年間…
日和佐城は、長宗我部元親の阿波侵入に対する防塁として、日和佐肥前守が築いたとされるが、その規模は小さかったようだ。元亀年間(1570-73)、もしくは天正年間(1573-93.1)初期に築城され、史料には3段の郭があったと記されている。 同じ頃、連なるように存…
西園寺家の荘園であった田井荘の荘司である、近藤京帝が館を構えたことに始まるという。 ただ、築城時期は、白地城の説明板が建武2年(1335)、田尾城の説明板では久安6年(1150)となっており、また、一説に鎌倉時代前期とするものもあって、非常に開きがある。…
田尾城南城館 南北朝時代初期の阿波奥部では、南朝方の小笠原義盛が大西城を本拠としていたが、その子か従兄弟といわれる頼清が、讃岐の脇屋義助と呼応して建武4年(1337)に築いたのが、田尾城の最初という。 この後、30年ほどは、小笠原氏が三好郡を中心とし…