Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-山城

能見城

能見城は、ノウミではなくノウケンと読む。 能見城築城には3つの説があり、そのひとつが穴山氏築城説である。 穴山氏は、甲斐源氏武田氏の5代信武の五男義武が、能見城周辺の逸見郷穴山村を領して地名を称し、穴山氏の祖となったという。しかし、これには異…

須沢城

須沢城は、武田信玄が治水のために流路を現在の川筋に変えたとの伝承が残る御勅使川の北側にある。この御勅使川は甲斐でも有数の暴れ川で、氾濫による流路の変更が幾度もあり、現流路を含めて5本の流路が確認されているという。また、暴れ川が運ぶ砂礫は扇状…

勝山城 (郡内勝山城)

勝山城本丸に建立されている東照宮と僅かに見える本丸の碑 勝山城というのは各地にあるため、郡内勝山城や都留勝山城とも呼ばれる。 鎌倉時代始め頃からこの郡内地方を統治したのは、武蔵国を本貫とする平良文流の坂東八平氏秩父党の小山田氏であった。 小山…

岩殿山城

武田家臣小山田氏の詰城。岩殿城ともいう。 岩殿山の歴史は、平安時代の9世紀末頃に始まり、この巨大な岩山に天台宗の岩殿山円通寺が開かれ、やがて門前町を形成するほど栄えた。天台宗や真言宗は中国の山岳仏教の系譜を継いでいるため、古来の山岳信仰と習…

平賀城

平賀城遠景 平賀の地は、新羅三郎義光の四男盛義が、平賀郷を本拠として平賀冠者と呼ばれたため、平賀氏の本貫地となった。 平賀城は、築城年代は不明ながら、その盛義の子義信によって築かれたという伝承を持つ。 義信は、前述のように河内源氏の嫡流に近い…

妻籠城

妻籠城登山口と城址碑 妻籠城の築城者や築城の時期ははっきり判っていないが、伝承では、木曾義仲が上洛する際に築いたとも、足利尊氏に仕えた木曾家村が築いたとも伝えられている。 城は、室町時代にはすでにあったとされていることから、実際のところは、…

高遠城

築城された年や築城者は諸説あってはっきりしないが、代々居城としていた高遠氏が築城したとみるのが妥当なところだろう。 高遠氏は、木曾氏の支族との説もあるが、末期の継宗や頼継が諏訪氏を名乗っていることから、諏訪一族という説に説得力がある。 諏訪…

真田本城

現地には真田氏本城とあるが、別に松尾城とも呼ばれ、上田城築城以前の真田氏の本拠城に推定されている。ただし、史実や遺構などで、本拠城が裏付けられているわけではない。 この城を築城したのは、真田幸隆(幸綱)とされていたが、発掘調査によって、鎌倉時…

桑原城

桑原城は、南東2kmにある諏訪氏の本拠上原城の支城だが、上原城を焼き払って桑原城に撤退したという諏訪頼重の最後の行動から、一説に桑原城がその頃の本城であったともいう。高鳥屋城とも呼ばれ、戦国大名としての諏訪氏が実質的に滅んだ際の城でもある。 …

海ノ口城

若き日の武田信玄(晴信)が、初陣で武功を挙げた城として有名な山城で、鳥井峠を扼すことから、別名を鳥井城ともいい、海野口城と書かれることもある。ちなみに、現在はウミノクチと読むが、往時はウンノクチと呼んでいた。 現地の碑には、文安・宝徳年間(144…

内山城 (信濃)

傾いていた内山城本丸の城址碑 永正年間(1504-21)に、大井玄岑が築城したいわれる山城。ただし、玄岑が築城したのは、内山城から尾根筋を伝った東にある内山古城ともいい、これが本当であれば、後に一帯を支配した武田氏による築城の可能性が高くなる。 大井…

上原城

上原城入口にある城址碑 諏訪大社上社大祝であった諏訪氏の居城。 古代より続く諏訪氏の出自には、複数の説がある。古事記には、大国主命の国譲りの際に、その子建御名方神が敗れて科野(シナノ)の州羽(スワ)の海に落ち延びて助命されたとあり、諏訪氏はこの…

有賀城

有賀城本丸の城址碑と解説板 鎌倉時代に、諏訪神家一党三十三氏のひとつとして名前の挙がる諏訪一族の有賀氏が築いた山城で、承久年間(1219-22)の築城という。有賀は、アリガではなくアルガと読む。 城が築かれたとされる前後、諏訪湖西岸の岡谷の辺りに有賀…

与板城

与板城縄張図 上杉景勝の家老を務めた直江兼続が築城し、居城とした山城とされるが、詳しい築城年代は不明である。一説には、謙信の頃の重臣である直江景綱の築城ともいう。 通説通りに兼続が築城したと考えると、それまで景綱やその養子信綱が本拠としてい…

本与板城

本与板城本丸の城址碑と縄張図と背後の土塁 名前が示す通り、古い方の与板城で、当然ながら築城当初はただの与板城と呼ばれていた。 中世の与板に関する資料が少ないためか、この本与板城の築城時期などもはっきりしないが、伝承では、新田義貞の長子義顕の…

栃尾城

栃尾城の本丸と切岸 栃尾城のはっきりした築城時期は不明だが、城としての体裁を整える以前より砦として使われていたと伝わる。ただ、険しい山上の立地や、目ぼしい記録も無い事から、恒常的に使われていなかったのかもしれない。 最初に城という形として築…

坂戸城

越後守護代である長尾氏の庶流上田長尾氏が居城とした山城で、上杉景勝、直江兼続ゆかりの城としても知られる。国指定の史跡で、坂戸はサカドと濁って読む。 坂戸城が築かれた時期には諸説あるが、鎌倉時代に城周辺の上田荘を領した新田氏の一族が、前身とな…

春日山城

現地にある春日山城鳥瞰図 あの上杉謙信の居城として有名な城で、五大山城のひとつ。 謙信は、もともとは越後国守護代を務めていた越後長尾氏の出である。その長尾氏は、坂東八平氏に数えられる桓武平氏の裔、有名な三浦氏や鎌倉党と同族であり、その祖は景…

守山城 (越中)

越中三大山城のうちのひとつ。二上山系の城山にあり、二上城ともいう。 守山城の築城時期は不明だが、南北朝時代の建徳2年(1371)に、南朝方の桃井直常が斯波義将の本城守山を攻め落としたと史料にあることから、南北朝時代には既に城として整備されていたこ…

森寺城

森寺城二ノ丸から見る本丸の石垣 能登畠山氏が、越中の拠点として築いた城。当時は湯山城と呼んでおり、一次史料にはその名で登場する。 越中と能登を結ぶ街道は、阿尾川沿いに北上して荒山峠を越える荒山街道が主街道であったが、この街道筋を扼す機能を持…

宮崎城 (越中)

宮崎城説明板 親不知から市振、境にかけて、越後と越中の国境付近は断崖が続くが、その名の通り、越中側の国境である境という地を見下ろす場所に城はある。 境にある境川では、越後勢と越中勢の合戦が幾度もあったが、宮崎城は越中平野部への玄関口を押さえ…

松倉城 (越中)

室町時代から戦国時代にかけての椎名氏の居城で、周辺に水尾城や升方城、北山城などの多くの支城を持つ中世山城である。越中三大山城のひとつ。 松倉城の築城者は不明だが、南北朝時代に越中守護であった井上普門俊清が在城したと史料に見え、延元3年(1338)…

升方城

松倉城の支城である山城。城址碑を見ると、舛方の字も使われているようだ。 松倉城は、南北朝時代から東越中の拠点であり、城主が変遷していく中で随時、拡張と支城網の整備が行われた。升方城もその支城のひとつで、松倉城の北西約1.8kmに位置する城である…

舟見城

舟見城説明板 舟見城は、越中越後境目の宮崎城の城主であった宮崎長康の嫡子入善行重が築いたというが、詳細は不明である。伝統的に、越後から侵入する軍勢に対する監視拠点のひとつであった。 行重の出自である宮崎氏は、藤原不比等の次男房前が興した藤原…

天神山城 (越中)

通信鉄塔が建つ天神山城本丸の削平地 標高163mの天神山に築かれた山城で、萩城ともいう。 史料に初めて見えるのは元亀3年(1572)だが、一説には、まだ長尾景虎と名乗っていた頃の上杉謙信が天文23年(1554)に築城したともいい、松倉城との近さから、長尾氏に従…

白鳥城

富山市街の西にある呉羽丘陵に築かれた山城。 白鳥城の築城年代は不詳だが、弥生時代の集落の跡が見つかっており、太古の昔から、平地に対する軍事的優位を得られる拠点として使われていたようだ。有史時代では、木曾義仲の四天王に数えられる今井兼平が越後…

小菅沼城

武隈屋敷跡の碑と石垣 室町時代に越中国新川郡の守護代であった椎名氏の本拠松倉城の北約1.8kmに位置する出城で、家老であった武隈氏の城。武隈屋敷とも呼ばれる。 武隈氏の子孫が記したという「武隈家記」には、暦応4年(1341)に足利尊氏の命で相模から椎名…

北山城

北山城北西端の削平地と物見台跡と思われる台状の地形 南北朝時代から東越中の主たる拠点であった松倉城の、北約2.2kmに位置する支城。 松倉城は、前述のように南北朝時代から戦国時代までの長期間に渡って東越中の拠点として使われたため、随時、拡張と支城…

二曲城

綺麗に整備された二曲城本丸全景 鳥越城と共に、百姓の持ちたる国と言われた加賀の一向一揆の最後の拠点となった城。フトゲ、あるいはフトウゲと読む。 この城は、麓に居館を置いていた二曲氏の詰城で、二曲氏が築いたとされるが、その時期は不明という。二…

七尾城 (能登)

室町幕府の三管領家畠山氏の分かれである、能登畠山氏の居城で、五大山城のひとつ。 城主であった畠山氏は、もともとは桓武平氏秩父氏流で、武蔵国男衾郡畠山郷の荘司となったことに発する。源平合戦の際は、剛直清廉な坂東武者の典型といわれた重忠が当主で…