Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

能見城

 能見城は、ノウミではなくノウケンと読む。

 能見城築城には3つの説があり、そのひとつが穴山氏築城説である。

 穴山氏は、甲斐源氏武田氏の5代信武の五男義武が、能見城周辺の逸見郷穴山村を領して地名を称し、穴山氏の祖となったという。しかし、これには異説もあり、在地豪族としての穴山氏が既に存在していたが、逸見氏と武田氏の守護を巡る争いの中で、穴山氏を取り込むために義武が養子として送り込まれたともいわれる。

 とは言え、義武を始祖とする説は系図にあるのみで裏付けに乏しく、義武入嗣説も、父信武の時代である元弘の乱から南北朝時代前期の頃の逸見氏はそれほど有力ではない上、守護職を巡って争ったのは主に南北朝時代終結後であることから、時代的に理由としては薄い。ちなみに、穴山氏は後に河内地方に本拠を移すのだが、その年代は南北朝時代終結直後とも15世紀中頃ともいわれており、何かと穴山氏の来歴や事績には不明な点が多いようだ。

 いずれにしても、穴山にある城ということが穴山氏築城説の根拠なのだが、穴山氏の居館とされる場所から少し離れている割に防御力を大きく期待できるほどの高さが無く、詰城とするには理由としてやや弱いのではないだろうか。

城跡の最高部の施設に建てられている能見城の表示

 2つ目の築城説は、武田勝頼による天正9年(1581)の新府城築城に伴って支城として築かれたという説で、3つ目の説は、翌年の本能寺の変後の天正壬午の乱の際、新府城に本陣を置いた家康による築城という説だが、どちらも、能見城と、七里岩上を横断するように築かれた能見城防塁をセットとして、諏訪方面に対する前線として築かれたとする。

 勝頼築城説とするならば、新府城との距離から考えて、前線というよりは惣構えの防塁と考えられ、能見城はその見張台兼中核施設という役割があったのだろう。そして、新しい府中となるはずだった新府城の城下町が、能見城付近まで計画されていたことになるが、能見城から新府城までは1.8kmほどの距離であり、一国の府中と考えるならば有り得ない大きさではない。また、反対側の新府城南方にも僅かに防塁が存在していることから、東西の川筋と南北の防塁で城下町を囲んだ姿が浮かんでくる。

 ただ、新府城ですら未完成の状態であり、能見城や防塁の整備まで手が回せたかを考えると、時間的には微妙なのかもしれない。

同じく最高部に建てられている守屋一族発祥地碑

 3つ目の家康築城説の場合は、能見城と能見城防塁が紛れも無く前線となる。この時、家康は8千の兵で新府城に本陣を置いていたが、対する北条軍は若神子に4万以上の兵を展開しており、兵力差から正面切っての野戦決着は有り得ず、防御を固めつつ情勢の変化に対応する持久戦法を採らざるを得ない。そして、その方針に従って防備を固めるために能見城が築城され、能見城防塁が築かれたと見れば、合理的な理由と言えるだろうか。

 実際、家康は、能見城の可能性が指摘される新府山へ酒井忠次勢を前進させ、北条軍と対陣しつつ別働隊で北条軍の補給線となる小諸城を攻略し、甲斐は切り取り次第とする和睦を北条氏と結んでいる。

 城は、天正壬午の乱の後は使われず、新府城と同様に放棄されたとみられ、平成10年(1998)と同16年(2004)に発掘調査があったようだが、全貌の解明には至っていない。また、本丸と思われる頂上部には何らかの施設が建ち、城址の看板と守屋一族発祥の地の碑があるのみで、説明板の類も無かった。

能見城の郭跡のひとつに建てられている長靖寺

 ちなみに、発祥の地の碑には、武田信玄の家臣である守屋定知なる武将が治めた地域とあり、定知が城将を務めたという伝承があるようだ。ただ、定知自身の事跡が不明なため、詳しいことはよく分からなかった。

 能見城へは、穴山駅から東へ行き、最初の交差点を右折すると、山へ入る道が斜めに出ているが、この道をしばらく登り、折り返すように左折して山へ入っていけば、すぐに城跡へと辿り着く。

 城の構造としては、頂上部が本丸で、頂上部の南にある長靖寺という無主の寺院の周辺がやや下がっており、この辺りが次段となるのだろうか。頂上部の内、施設がある部分は周囲から盛り上がっているが、これが往時の地形だったのか施設建設の際の盛り土なのかは判断できなかった。

能見城の段郭と見られる地形

 本丸の削平地としては、この施設一帯と、登ってきた道を挟んで反対側になる東方向が同じ高さで、この部分は藪化していて入れなかったものの、見る限りでは土塁跡の様な盛り上がりが確認でき、人の手があまり入っていないのならば遺構が比較的残っている可能性もある。また、頂上部から西方向の登山道沿いにも、段郭のような地形が確認できるのだが、こちらは部分的にコンクリート擁壁などもあり、往時からの地形なのか後世に造られた地形なのか判断できなかった。

 いずれにしても、地形図などを確認すると頂上部がほぼ方形となる山容であり、複雑な縄張にはなっていないようである。

 

最終訪問日:2012/10/13

 

 

あまり訪れる人もいないのか、かなり藪と化していて、入って行けない場所が多かったですね。

ただ、改めてネットで写真を見てみると、ずいぶんと木々や草かせ刈られてすっきりしており、今ならもっと色々な所を見て回れそうです。

遠くてなかなか行く機会も無いですが、もう1度見て回りたいですね。