Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

上ノ平城

 上ノ平城は、平安時代末期に伊那馬大夫と称した、源為公によって築城されたと伝わる。

 為公は、清和源氏の主流である源経基の流れで、経基の五男満快を祖とする家に生まれ、この家は、主に東国の官職を歴任していた。為公の父為満は、同じ経基流の中でも最も栄えた河内源氏と関係を結び、源頼信の娘を室に迎えていたため、為公自身は八幡太郎義家や新羅三郎義光とは母方の従兄弟にあたる。

 為公の信濃との繋がりは、為公が信濃守に任官した際にこの城を築いて勢力を扶養したといわれ、子孫は各地に土着して信濃源氏の一派となっていった。

 その後、上ノ平城には、鎌倉時代に知久氏が拠ったとされるが、知久氏の出自には、この為公の子為衡に始まる中津氏の出という説のほか、諏訪氏の源流である金刺氏と同族の他田氏の末裔という説がある。

上ノ平城本丸

 諏訪氏系図には、諏訪敦俊が知久沢に住んで知久を称し、その養子として知久氏の実質的な初代となる信定が見え、この信定の出身氏族をどちらに取るかで説が分かれるようだが、いずれにしても、城の北東にある日輪寺付近が知久沢であり、最初からこの城の周辺を支配していたのは間違いない。

 信定は、諏訪神党に属し、承久3年(1221)の承久の乱で幕府に味方して下伊那の伴野荘の新補地頭になったといい、本拠を現在の飯田市にある知久平へ移し、城は一旦廃城となったようだ。

 現地案内板によると、かつては信定の立ち退き以降は城として機能していなかったと考えられていたが、発掘調査によって、15世紀中頃から16世紀中頃の戦国時代の遺構や遺物が検出され、その時代にも城として機能していたことが判明した。

上ノ平城二ノ丸

 遺構を見ると、確かに鎌倉時代の城としては規模が大きく、そして構造が複雑過ぎるため、城に詳しい人間なら、鎌倉時代の遺構だけでないのは一目瞭然であるのだが、調査前は開拓で田圃化していたと思われることから、全体像が埋没して掴めなくなっていたのだろう。

 ただ、城の構造物としての歴史は判明したが、城主などの事跡は不詳である。恐らく城の最末期には、藤沢頼親の行軍範囲や本拠福与城との距離から、その支城として使われていたのではないだろうか。そして、16世紀中頃の頼親の没落と共に再び廃城になったと考えるのが、時代背景的にも合理的なようだ。

 城跡は、丘陵となる峰筋の突端部を空堀で区画して郭を造るという、伊那地方によく見られる城の構造をしており、大きく4つの郭で構成されている。現地に案内板が2つあり、郭の数え方が違うのだが、突端から2つ目の郭を本丸とするのは共通で、本丸東側には、山塊から細長く張り出した丘陵を区切っているが故に、本丸より高く大きな郭が2つ続くという連郭式の城であった。

上ノ平城の解説と縄張図

 現在の城は、かつて田畑だったと思われる本丸跡が、芝生が敷かれた広場として整備されている。突端の郭と本丸との間の二ノ堀は、端部に痕跡が残るだけだが、これは恒久的な建物などがあったと推測される初期の城が焼失し、その上に盛り土をして城を改修した際に堀も埋められたためという。伊那の歴史とどう関連があるのかは不明だが、大きな情勢の変化があったのだろうか。

 突端の郭の西には、一ノ堀が穿たれ、こちらは現在でも空堀らしい落差があって、遺構の中で最も城らしい構造物の姿を残していた。また、一ノ堀の先は小山のような地形となっていたが、往時には物見台のような施設があったのかもしれない。

上ノ平城本丸と二ノ丸の間の二ノ堀はほとんど埋まっている

 本丸から東側の2郭には、長大な空堀が東西に走っていたようだが、埋められた堀跡があることから、丘陵を区画しただけの単純な郭を新たに区切り、北側に独立する郭を造ったようだ。二ノ堀の改修時期と重なるのかは不明だが、こちら側も初期と末期で姿を変えたもの思われる。

 何気なく訪れた城だったのだが、その規模や構造など、知名度の割になかなか魅せる城で、発掘調査に基づいて、遺構にはそれぞれきちんと名前を示す案内板が立てられ、史跡として解り易い形で残されている部分も多く、城内の散策が非常に楽しかった。また、視界も広いので、単純に伊那らしい風景を感じられる場所にもなっている。城に到達するまでの道が細く、迷いかねない部分もあるのだが、近くに行った際には間違いなく訪れて損は無い城だ。

 

最終訪問日:2012/10/12

 

 

発掘調査後は芝生が敷かれ、とても綺麗に整備されているので、非常に清々しい城跡になっています。

東から丘陵が張り出してくる地形は、いかにも伊那谷という感じがして好きですね。