Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小田原城

 北条氏で有名な小田原城だが、戦国時代の城の主郭部は後背の八幡山にあり、現在の小田原城の辺りには居館があったという。現在の城としての構造は、北条氏滅亡後に構築されたものである。

 小田原城の歴史を辿れば、古くは平安時代末期に土肥実平の嫡男遠平が早川流域の早川荘を領し、居館を置いたのが最初という。

 本格的に小田原城が登場するのは室町時代で、応永23年(1416)の元関東管領上杉禅秀による鎌倉公方足利持氏への叛乱時に、大森頼春が持氏方として活動し、禅秀方であった西相模の土肥氏や土屋氏の旧領を翌年に与えられて小田原城を築いたとされる。

 ただ、この城は八幡山古郭のことで、現在の小田原城とは直接関係が無い。とは言え、扇谷上杉氏の重臣として活躍した頼春の子氏頼の時代に城下町が整備されており、小田原の街の原型はこの大森氏時代に造られたというのは間違いないだろう。

復元された小田原城天守

小田原城本丸常盤木門

 その後、11代将軍足利義澄の意向を受けて伊豆に勢力を持った伊勢盛時(北条早雲)が、謀略と奇襲によって小田原城を奪取し、子氏綱の時代に名実共に北条氏の本城となり、さらにその子氏康、氏康の孫氏直の時代に城は大きく拡張されていった。そして、八幡山古郭だけではなく、御用米郭から居館らしき建物跡と庭園跡が、三ノ丸から戦国時代の堀が発掘されているように、近世の小田原城の範囲まで城域が拡げられたようだ。

 最終的な小田原城の範囲は、後の大坂城を越える約9kmという長大な惣構が構築されたため、まさに当代随一の城と言える規模にまで拡張された。しかし、天正18年(1590)の秀吉による小田原の役では、北条軍は主力を小田原城に集めて籠城したものの、秀吉軍は補給が万全の態勢で支城網を潰しに掛かり、手足をもがれた北条勢は3ヶ月の籠城戦を経た7月5日に開城に追い込まれている。それでも、圧倒的兵力を誇った秀吉すら力攻めしなかったというのは、城の堅固さの証明になるだろう。

小田原城馬屋郭への虎口となる馬出門と水堀

小田原城二ノ丸銅門と桝形

 戦後、旧北条領はほぼ家康に与えられ、小田原城にはその家臣大久保忠世が入り、近世城郭へと改修された。忠世の死後は嫡子忠隣が継ぎ、江戸幕府成立後も小田原を動かなかったが、慶長19年(1614)に突如として改易を申し渡され、惣構も破却されている。

 この改易劇は、大久保長安事件への連座や無断婚姻によるとされるが、内実は本多正信・正純父子との政争の結果という説が濃厚という。

 その後、元和5年(1619)から5年間の阿部氏時代を挟んで寛永9年(1632)に稲葉正勝が入城し、城も改修された。貞享3年(1686)には、忠隣の孫忠職の養子である忠朝が小田原に復帰し、以後はそのまま維新まで大久保氏が藩主を務めている。

 城の構造は、典型的な近世平山城で、本丸及び天守の西側に旧主郭部分である八幡山を背負う形とし、本丸と天守閣、御用米郭の3郭を頂点に内堀を挟んだ東へ二ノ丸を設け、さらに中堀を挟んで三ノ丸が東南北を囲い、その外に外堀があった。また、二ノ丸と三ノ丸の間の中堀には、評定所郭や馬出郭、御茶壺郭といった馬出機能を持つ郭が設けられている。

小田原城案内図

小田原城説明板

 ちなみに、北条氏時代の長大な惣構は、一部が破棄されたものの部分部分で存続し、江戸時代も小田原城下町の境界となった。

 市街地に在りながら、城地は比較的よく残されてはいるが、明治3年(1870)の廃城後、同5年(1872)にかけて大部分の建物が解体され、さらに大正12年(1923)の関東大震災では、残った二ノ丸平櫓や石垣なども破壊されてしまっている。このため、現在の城址公園に残る建物や石垣などは、再興や修復されたものが多い。

 このような残存状況ではあるが、小田原市自体は保存に積極的であるようで、発掘調査も継続して行われており、城址公園の今後の充実には期待できそうだ。

 小田原城内には観光客もかなり多く、東京圏から近い観光地として人気のある城のようだが、これは、東京神奈川に天守閣を持つ歴史のある城というのが、皇居以外には無いからなのかもしれない。八幡山古郭目当ての2度目の登城でようやく模擬の天守閣に入れたのだが、すぐ北側に天守閣と同等の高さの台地があり、他を圧倒して高いことが多い天守閣としては、小田原城天守はやや珍しい眺望だろうか。

 

最終訪問日:2013/12/26

 

 

1回目の訪問では、城内を散策していて、うっかり天守閣の入閣時間を過ぎてしまい、天守閣には登れませんでした。

個人的には、1回で天守閣まで回りきれなかっただけに、2度の登城で妙な満足感がある城ですね。