現地には、沼津城址碑しか建っていないが、沼津城は三枚橋城の跡地を利用したもので、三枚橋城が前身と言える。ただ、2つの城の存在期間はかなり離れており、直接の前身と言うのは難しいかもしれない。ちなみに、三枚橋城を沼津古城と呼ぶ場合もあるようだ。
三枚橋城が築城された年代には、元亀元年(1570)8月の武田信玄在世中に築かれたという説と、天正5年(1577)に信玄の子勝頼が築いたという説の、2つの説がある。甲陽軍鑑などにあるのは後者の説で、これが一般に知られていたが、他の史料から元亀元年の城郭普請に関する記述が見つかり、今では前者が有力になっているという。
築城時の時代背景としては、前者の説では、永禄11年(1568)の信玄の駿河侵攻に伴う三国同盟の崩壊と、その結果である北条氏と武田氏との対立から来る、翌年10月の小田原城攻囲後の三増峠での武田軍の勝利、そして翌月の第3次駿河侵攻という流れがあり、沼津周辺を掌握した武田氏が、北条方の最前線である戸倉城に対する拠点として築城したということになる。
この永禄11年から翌元亀2年(1571)にかけては、御殿場の深沢城でも幾度か攻防があり、沼津から御殿場に掛けての富士山東麓が、両家の攻防ラインであったようだ。
一方、後者の説における時代背景は、北条氏康死後の武田北条間の同盟復活を経て、天正6年(1578)の上杉謙信死後の上杉氏の家督争いに両者が加担したことによる再対立であったとされる。
しかし、城が築かれたとされる天正5年(1577)は、勝頼が北条氏政の妹を後室に迎えた年で、甲相同盟はむしろ強化が図られており、わざわざ領境を不穏にする築城を行う理由が無い。このため、後者の説では、天正7年(1579)の築城という説も挙げられている。
いずれにしろ、三枚橋城は武田方の最前線として築かれたことには違いは無く、城主には春日虎綱(高坂昌信)の次男昌元(高坂源五郎)の名が見えるが、昌元は天正10年(1582)2月の織田・徳川連合軍による甲斐侵攻の際、沼津城を放棄して甲斐救援に向かったため、城が戦場になることはなかった。
一説に、寝返りで武田方となっていた戸倉城が落城したため、三枚橋城の守備兵が動揺し、自落したともいう。
戦後、城は一時北条氏のものとなったが、後に徳川氏に明け渡されたようだ。この当時、北条氏は織田氏と同盟しており、戦後の論功行賞で武田旧領の内、駿河一国が家康に与えられたため、波風を立てなくなかった北条氏は、それに従って明け渡したと思われる。とは言え、実際のところ、織田・徳川連合軍は戦果を独占するため、北条氏側に戦況が漏れないようにしていたと見られ、出遅れた北条軍に領有を主張するほどのさしたる軍功が無かったのも事実であった。
こうして、三枚橋城は徳川氏の属城となり、城には東条松平家を継いでいた家康四男の忠吉と、それを後見する松井松平康親が4万石で入部したのだが、幼いとは言え実子を城主に据えた所を見ると、家康は城をかなり重視していたのだろう。
この武田旧領の差配が終わった直後の6月、謀反により京で信長が横死するという大事件が起こる。いわゆる本能寺の変だが、これによって領国化して間もない武田旧領は、織田家臣の撤退や武田旧臣の蜂起などで勢力空白地化してしまう。
これに乗じ、徳川氏と北条氏は、草刈場とばかりに上野や信濃、甲斐に兵を繰り出し、天正壬午の乱と呼ばれる両者の戦いが起こるのだが、奇しくも三枚橋城は家康の見立て通り、領境の重要な城となったのだった。
その後、同年中に徳川氏と北条氏が和睦し、婚姻も結ばれたため、城の重要性は下がったが、忠吉と康親、康親の没後は子の康重が変わらず城に在り続け、この城で家康と北条氏政・氏直父子との会見も行われたという。また、天正18年(1590)の小田原の役の際には、上方軍の拠点して活用され、秀吉はこの城で津軽為信の謁見を受けている。
戦後、家康は旧北条領へと転封されたため、駿東は中村一氏に与えられ、三枚橋城には弟の一栄が入城した。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後には、東海道の要地として翌年に譜代の大久保忠佐が2万石で入部したのだが、忠佐の子は早世しており、同18年(1613)の忠佐の死によって無嗣断絶となっている。
この少し前、大久保彦左衛門として知られる弟忠教を養子にしようとしたものの、彦左衛門は、自らの勲功に非ずとして断ったという逸話が有名だが、こうして沼津藩は断絶し、これに伴って代官支配地化され、三枚橋城も翌年に廃城となった。
その後、160年以上経った安永6年(1777)に、水野忠友が沼津に2万石で封じられて沼津藩が成立し、城は沼津城として再興されたのだが、この城は三枚橋城の北半分を利用したもので、大きさは半分程度であったようだ。
沼津藩は、後に忠友が5千石を、その養子忠成が1万石をそれぞれ2回ずつ加増されて最終的には5万石を領し、老中や奏者番などの要職に就いた藩主が、忠成を始め多く出た。しかし、最後の藩主である忠敬は、戊辰戦争の際に新政府側に味方しており、徳川宗家を継いだ徳川家達の駿河入部に伴って上総国菊間に移っている。
その後、沼津城は、維新後に沼津兵学校として使われていたが、明治5年(1872)に払い下げで解体され、翌年には廃城令で正式に廃城処分となり、城地も次第に市街地に没していった。
城の構造は、狩野川を東南方面の防御とし、今の中央公園付近の本丸を中心に、北と西の方向へ二ノ丸、三ノ丸と同心円状に郭を広げ、三ノ丸の北東から南に掛けては、ぐるりと外郭が覆うという形である。
後に沼津城として再興された際は、泰平の時代というのもあって政庁という要素が強く、前述のように半分程度の大きさで、南半分を始め外郭の一部などは城地に入らなかったのだろう。中央公園付近の本丸のすぐ南、現在の静岡銀行の辺りが、もう城外との境であったようだ。
現在の城跡は、都市化で市街地に埋もれており、中央公園の中に城址碑があるだけである。この城址碑の土台の石は、昭和48年(1973)に発掘された石垣の石材で、三枚橋城当時の石垣という。この石材以外では、地図上で外堀通りや大手町、川廓などの名前が見られるのが城の僅かな名残だろうか。
ちなみに、城址碑の建つ中央公園は沼津駅から至近で、城を訪れるのは、鉄道を利用するのが一番便利なようだ。公園と接する旧国一通りは、市街地の幹線県道で駐車場などが無く、車で行くのはやめておいた方が無難かもしれない。
最終訪問日:2013/10/14
城は見えているのに、バイクを止める場所が見つからず、グルグルと彷徨いました。
市街地の城あるあるなんですが。
なんとか見つかって良かったです。