Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

白山城

 天方九ヶ村を領した天方氏の城。

 天方を含む飯田荘は、鎌倉時代より首藤山内氏が地頭を務め、その庶流が天方に土着し、地名を姓とした。その時期は、南北朝時代の14世紀後半頃という。

 天方氏は、当初は白山城から三倉川を挟んだ北向かいの天方本城を居城としていたのだが、5代通季の頃である文亀元年(1501)に遠江を巡って、遠江守護斯波義寛と、かつての遠江守護家である今川氏親の間で争いがあり、義寛の要請で侵攻してきた信濃守護小笠原貞朝の軍に奪われてしまった。

 この時、通季は今川勢と合力して籠城する小笠原勢を攻撃し、城を奪回したのだが、通季はより堅固な城の必要性を感じ、新たに築城したのがこの白山城である。

 ただ、白山城の事跡自体は全く不明と言っていいほどで、その北麓の台地が城代の屋敷であったという伝承が伝わってはいるものの、通季以降の本城であったのか、麓に屋敷を持つ城代が管理していた城だったのかなど、どのように城が使われていたのかについては、ほとんど判っていない。

細長い白山城本丸を北西方向から

白山城本丸北西の土橋

 天方本城に代わって築城されたという伝承が本当なら、文亀年間(1501-04)か永正年間(1504-21)の初め頃に築城され、天方新城が築かれたとされる永禄11年(1568)頃まで本拠として機能したということになる。

 城へは、谷本神社の西側から獣道のような登山道が出ており、麓からの取り付きは竹藪を直登するような形となるが、尾根筋に入れば、シダ系の植物が生えているのみで藪は浅く、傾斜も比較的緩やかで歩き易かった。

 谷本神社から頂上へ向かう北西方向の尾根筋には、最高部の本丸の直下の段から数えて9段もの段郭があり、途中には谷本神社の背後へと伸びる明確な竪堀も確認できる。この竪堀が段郭と交差する所はやや崩れているが、往時はもっと明確な堀切で、竪堀へと繋がる尾根筋の遮断ラインだったのではないだろうか。

白山城本丸と直交する形で伸びる次段

白山城から麓の谷本神社方向へ続く竪堀

 本丸は、南東から北西に伸びる頂上部の細長い郭で、その中ほどから南西方向に直交する次段があり、広さから考えても、このT字となっている2郭が主郭だったと思われる。

 本丸北西側は、主郭から土橋を挟んだ先に削平地があり、その直下の堀切を経た先にも削平地が確認できた。ただ、その先にも武者走りのような形で平坦な細い地形が続いていたものの、ここから先には明確な遺構らしきものは見当たらず、城外との区切りは不明確である。

 築城背景を考えると、この先にも更に遺構が続くというほど大きな城とは考えにくく、最後の明確な削平地の辺りが、城の境目ではないだろうか。

 城全体としては、あくまで詰城の範疇を出ない中世的な山城で、郭の広さを考えても、平時に居住する城ではなかったと思われる。ただ、段郭を始めとする遺構の保存状態は良好で、それなりに見応えのある城ではあった。

白山城本丸の北西にある出郭のような削平地

9段あった白山城南側段郭の6段目の上の堀切

 

最終訪問日:2016/5/21

 

 

登山道の目印となる谷本神社は、県道沿いで場所が分かり易くて駐車スペースもあったので、非常に有り難かったです。

登山道の入口を見た時には、どうなるかと思いましたが、城域内の道は下草も僅かで歩き易く、直登だからと構える必要もなかったですね。

マイナーながら、城好きなら登って損はしない城です。