要害城や、麓の積翠寺の名を取って積翠山城とも呼ばれる山城で、甲斐守護武田家の居館躑躅ヶ崎館の詰城。
躑躅ヶ崎館は、武田家の館として非常に有名だが、それより前の守護所は石和にあった。
叔父信恵を破って武田氏の惣領となり、甲斐を統一していった猛将武田信虎は、永正16年(1519)に守護所を石和の川田館から躑躅ヶ崎館へ移し、新たな城下町を造って家臣を集住させたのだが、これには、戦国大名としての専制的な大名権力の確立を図る狙いと、内訌を収めたという人心刷新の意味があったのだろう。そして、館の防備を固めるべく、後に甲府城が築かれた一条小山や湯村山に築かれた城砦と共に、その防御の中心を担ったのが、躑躅ヶ崎館の後背にある要害山城である。
築城は、駒井政武の「高白斎記」により、永正17年(1520)の6月とはっきり判っており、これは戦国時代前期の城としては珍しい。城のある積翠寺一帯は、この政武の領地であり、その中で丸山と呼ばれる山が城地に選定され、普請が始められたとある。
築城の翌年には、今川家臣福島正成が甲斐に侵攻しているが、信虎夫人は躑躅ヶ崎館からこの城へ避難し、後の信玄である嫡子晴信を産んだとされ、本丸には信玄公誕生之地の碑が建つ。ただ、晴信は積翠寺で誕生したとの説もあり、積翠寺には信玄の産湯の井戸があるという。
その後、要害山城は躑躅ヶ崎館と共に武田氏の本拠として在り続け、信虎の甲斐統一や天文10年(1541)の晴信(信玄)による信虎追放、信玄による武田氏全盛期の創出を見届けた。
その後、天正9年(1581)に晴信の子勝頼が新府城を築いて本拠を移したが、翌年の織田徳川連合軍の侵攻で武田氏が滅んだため、移転は不完全に終わったようで、織田家臣として甲斐一国を統治した河尻秀隆は、躑躅ヶ崎館を修復して使用したとされる。そして、要害山城に求められる詰の役割も、そのまま変わらなかったのだろう。
その秀隆も、同年6月の本能寺の変の後、旧武田家臣の蜂起によって討たれ、無主の地となった甲斐では、北条氏と徳川氏の争奪戦である天正壬午の乱が発生する。両者は、若神子と新府では対陣し、東信濃でも激突したが、やがて両者の和睦によって甲斐は正式に徳川領となり、躑躅ヶ崎館には、家康の代官として平岩親吉が入城し、この城も維持された。
天正18年(1590)の小田原征伐後、家康は関東へ移封となり、代わって家康監視の使命を帯びた秀吉の一門羽柴秀勝、同じく古参家臣の加藤光泰、同じく親族の浅野長政・幸長父子が相次いで甲斐を与えられ、浅野時代には甲府城が完成して躑躅ヶ崎館は廃城となったが、要害山城は甲府城の支城、詰城として維持されたようだ。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、甲斐が再び徳川家直轄となったことから、使命を終えた城は廃された。
城の構造としては、頂上部を長方形に削平して本丸を造り、西側の大手筋にはただひたすらに幾重にも郭と門を構築しているという感じだ。武田3代で繰り返し修築が行われ、光泰の時代にも改修されているが、お椀を伏せたような山容で削平地を取れる場所が少ないということもあって、縄張をあまり変えずに動線部分の防御力の増強という改修が繰り返されたのかもしれない。一般に見られるような尾根筋を削り取った段郭ではなく、大きな帯郭という感じの郭が多いのは、その表れだろうか。改修拡張の結果、郭の数が多くなり、削平地の面積を合計すると相当数の兵が駐屯できたと思われ、桝形を持つ虎口と郭ごとに折れ曲がる動線でより防御を固めている。
一方、本丸から東側の搦手へ進むと、こちらは稜線になるため、幾重もの堀切や竪堀が切られて防御を固めていた。どちら側も防備は固く、これでもかと同じような構造物を繰り返し設けているが、地形に基づく防衛思想がまるで違っていて面白い。
要害山城へは、要害温泉の入口から登山道が出ており、頂上までは20分程度の行程である。登山道沿いには竪堀や土塁、石垣跡が幾つも登場し、なかなか飽きさせない。特に不動郭の近くからは遺構が多くなり、桝形を伴う門跡や大きな土塁、大きな削平地を持つ郭が連続して続き、それらの後に土塁で囲われた本丸があった。本丸を囲う土塁には石垣の痕跡があり、築城時ではなく後の改修時からかと思われるが、石垣造であったようだ。また、本丸搦手にも石積で補強されたという、山城にしては珍しい堀切が穿たれている。
詳しい縄張図などが無く、全体の案内としては情報不足の感が拭えないが、散策で城の規模の大きさを感じられ、かなり満足感のある城だった。麓の要害温泉が近いのも魅力で、ゆっくり半日かけて散策と温泉を満喫するのも、かなりお薦めかもしれない。
最終訪問日:2012/10/14
要害山城を散策して下りて来ると、「登山の後に温泉はいかが」という要害温泉の看板が目に入りました。
城を見て満足した心と、心地よい疲れを溜めた体には、これは恐ろしいほどの殺し文句ですね。
疲れた足が自動的に温泉に向かいそうなほど魅力と引力を感じましたが、神戸に帰らないといけないという時間の関係もあって、断腸の思いで諦めました。