Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

海ノ口城

 若き日の武田信玄(晴信)が、初陣で武功を挙げた城として有名な山城で、鳥井峠を扼すことから、別名を鳥井城ともいい、海野口城と書かれることもある。ちなみに、現在はウミノクチと読むが、往時はウンノクチと呼んでいた。

 現地の碑には、文安・宝徳年間(1444-52)頃から、後に守将として見える平賀氏が城に拠っていたと刻まれているが、これは伝承の類と思われ、築城年は不明とされるのが一般的だ。また、廃城時期も不明という。

 具体的に海ノ口城の名が出てくるのは、武田家の戦略や戦術、その事績をまとめた軍学書「甲陽軍鑑」においてである。

海ノ口城本丸にある沿革を記した碑と屏風岩

 それに従えば、天文5年(1536)の秋、甲斐守護であった武田信虎は、国境を越えて佐久へと侵攻し、2千の兵が籠るこの海ノ口城を8千の兵で囲んだ。しかし、守将の平賀源心(玄信)は勇猛で聞こえた武将で、城をよく守って1ヶ月以上の包囲にも落ちず、大雪が降ったこともあり、12月26日に信虎は撤退の決断を下す。

 この時、初陣として参加していた信虎の嫡子晴信は、殿軍を務めることを自ら申し出、兵3百を率いて殿軍を務めていたが、途中でにわかに軍を返し、勝利に油断した城を早朝に急襲した。

 守将の源心は、武田軍の撤退を見て、兵に正月を家で迎えさせようと軍を解いたため、城には僅か80名ほどの留守兵しかおらず、また、祝宴を開いたことによって兵は眠りこけていたという。そのため、大した抵抗も無く城は落城し、源心も討たれた。源心の首は功の証として甲斐に持ち帰られ、若神子で丁重に葬られたという。

海ノ口城本丸の先にある台状の小郭と東屋

 これが、「甲陽軍鑑」に記された海ノ口城の事績であるが、伝説的な武将の初陣譚であり、その真偽には疑問が呈されている。一説には、小幡盛景が策を立て、後の馬場信房である教来石景政が源心を討ち取ったが、初陣であった晴信に功を譲ったともいう。

 以後、城は、武田軍の佐久方面への中継地として利用されたとされる。だが、「高白斎記」に海野口という地名は登場するのだが、城自体の規模が小さい上に千曲川沿いの佐久甲州街道からもやや奥に入るため、城を中継拠点として使うには難しそうだ。江戸時代の海ノ口宿付近や、千曲川沿いの平地に宿所や集積地を確保したか、あるいは麓まで拡張されている約2km西の海尻城を実際の拠点として使ったと考えるのが、妥当ではないだろうか。

海ノ口城二ノ郭と本丸の切岸

 城は、前述のように鳥井峠のすぐ東に築かれており、峠道の監視と海尻城への連絡が最大の役割だったと思われる。縄張も単純で、小規模な本丸と、南のやや境目が不明瞭になっている二ノ郭、三ノ郭が中心と思われ、本丸の東に東屋の建つ小さな台状の部分があるほかは、西に小段がある程度で、とても2千人が籠ることができる規模は持っていない。

 また、鳥井峠までと、そこから城域までの道も、割と勾配の緩い箇所が多く、険阻な場所に築かれた堅固な城ではないことが実感できる。この地形からも、8千の兵を迎え討って1ヶ月以上籠城したという姿は頭に描きにくい。

海ノ口城本丸東側の大堀切を上から覗く

 城の最大の見所は、東屋の建っている場所の先にある大堀切で、掘り切ったと言うよりは削り落としたという感じに近く、相当な深さを持っており、その規模に圧倒される。そのほかでは、本丸の屏風岩が野趣を醸し出しており、前線の城という荒々しさがあって良かった。

 海ノ口城へは、佐久海ノ口駅の北側の橋で千曲川を渡り、大芝峠へと向かう道の途中の集落に小さな案内が出ている。案内に従って未舗装の道を進むと、集落の裏側の谷筋に出るが、その谷筋が鳥井峠への道となっていた。この道の先にある鳥井峠から右手の尾根筋へと進めば、埋もれ掛けた堀切の跡が現れ、城域へと到着する。

 海ノ口城については、冷静に見れば小規模な砦に近い城だが、武田信玄の初陣の伝承が残る城という意識があるため、訪れた時の満足感は意外と高い。戦国時代好き、特に武田信玄好きの人には、そういう感想の人が多いのではないだろうか。

 

最終訪問日:2019/5/11

 

 

集落から鳥井峠へと向かう道は、礫石がゴロゴロしているよな未舗装の道で、バイクで転けないかドキドキでしたね。

その先の谷筋の道は、割とフラットな上り坂だったんですが、落ち葉に隠れて僅かに石畳のような石の並びが見えたので、タイヤが滑る姿がありありと想像でき、さすがにバイクを断念して歩きました。

途中に駐車場の表示があったんですが、そこまで車で行くのも、車高が高くないと大変そうですので、訪れる人は気をつけて下さい。