Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

政元城

政元城の本丸と空堀

 江馬氏の家臣吉村政元の居城で、国指定史跡である江馬氏城館跡のひとつ。

 神岡の傘松城には、平治元年12月(1160.1)の平治の乱に敗れた源義朝の長子義平が飛騨に落ち、傘松城で兵を募ったという伝承があり、その時に家臣正本主馬がこの政元城を築いたとも伝わるが、これはあくまで伝承に過ぎないと思われる。

 実際のところは、いつの頃からか山田川沿いの小さな盆地に領主が生まれ、その領主の詰城として築かれたのではないだろうか。居館跡に寺社が建てられる事も多いことから、現在の大国寺付近に居館があり、居館と詰城という中世的な組み合わせだった可能性が高そうだ。

政元城説明板

 その後、戦国時代に政元が再築したか配置換えかで居城し、後世に政元城と呼ばれることになった。政元の事跡はあまり伝わっていないが、江馬四天王、江馬氏八大家に吉村の名があることから、江馬家中で重きを成した家柄であったのは間違いない。

 江馬氏は、戦国時代中頃に江馬時経が三木良頼に娘を嫁がせ、婚姻を結んでいたものの、時経の娘が没するとやがて対立し、天文年間(1532-55)の中頃には、すでに三木氏と衝突していることが見える。

 この後も、三木氏の勢力伸張と共に対立は激しさを増して行くのだが、政元はその過程で要地の鎮めとして政元城に在った可能性が高い。なぜなら、当時の越中東街道は、国道41号線と同じく神岡から山田川沿いに遡るが、この政元城の眼下で南に折れ、巣山から大坂峠に抜けるルートだったためで、政元城や、同じく国指定史跡となっている近隣の寺林城は、まさに街道筋を抑える大事な城であった。

政元城の空堀と架けられていた木橋

 江馬氏はその後、武田氏の支配下に入って命脈を保ち、後に輝盛が家督を継ぐと上杉方に転じたが、紆余曲折がありつつも、三木氏こと姉小路氏と対立を続けた。そして、天正10年(1582)に姉小路氏の後ろ盾となっていた信長が本能寺で横死すると、好機とばかり、10月に姉小路頼綱(自綱)に総攻撃を仕掛けたのだが、八日町の合戦で輝盛が討死してしまい、総崩れとなって翌日には高原も占拠され、瞬く間に滅んだ。

 この時、大坂峠で輝盛の家臣13人が殉じたことから、大坂峠は十三墓峠とも呼ばれているが、敗走ルート上にある政元城も、潰走の中で放棄されたか陥落したと思われる。これ以降に城が姉小路氏によって使われたかどうかは不明だが、姉小路氏を滅ぼして天正13年(1585)に入封した金森長近は、支城として2城だけを築いており、少なくともこの年以降、城として機能していないのは間違いない。

政元城本丸奥部

 政元城は、国道41号線と県道75号線が交わる付近に建つ、大国寺の後背に在り、寺の裏からあぜ道経由で登山道が出ている。道や城跡は下草も刈られて非常に整備されており、地元の方も大事にしているのだろう。

 城跡自体は、山の中腹のやや盛り上がった場所に幾段かの郭を設け、そこから北東と南東に段郭を持つ比較的小規模な城だが、本丸中央に空堀が穿たれており、その堀底は帯郭に繋がっているというやや変わった構造だった。本丸は山の最高部には無く、本丸背後の頂上には狼煙台があるようだが、最高部に本丸を置かないというのも、防衛拠点というよりは街道監視と連絡重視という城の性格が出ていると言えるだろうか。

 ただ、頂上への道は、ほとんど人も立ち入らないようで藪化しており、先には行けなかった。登ろうとするならば、草木の少ない季節を選んだ上に、さらに相応の装備が必要だろうと思われる。

政元城の南側の削平地

 

最終訪問日:2017/5/20

 

 

山頂の狼煙台へ向かう道は、道があるのかどうかすら判らないほど藪と化していましたが、中腹の本丸までの道は、非常に手入れが行き届いて登りやすかったですね。

本丸の空堀の付近は、防御的にどういう目的があったのかよく解りませんでしたが、なかなか面白い遺構で、興味深かったです。