Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高山城 (飛騨高山城)

 高山城は、金森長近が築いたとされる話が有名だが、前身は、室町時代に築かれた天神山城である。具体的には、文安年間(1444-49)に飛騨守護であった京極氏の家臣で飛騨守護代を務めた多賀徳言が築き、永正年間(1504-21)には多賀氏の庶流とされる高山外記が再築したという。

 ちなみに、高山の地名は、徳言の頃に姓から取られた別名の多賀山城が元になったとも、高山外記の名字から取られたとも言われるが、これには諸説があるようだ。

 この後の事跡としては、永禄元年(1558)に広瀬氏と連合した三木頼綱(自綱)によって外記は攻め滅ぼされ、天神山城にその叔父である三木久綱が入ったことが見える。

 その後、姉小路家の名跡を継いで飛騨をほぼ統一していた頼綱・秀綱父子を、天正13年(1585)に秀吉の命で金森長近が滅ぼすと、長近は戦後に飛騨一国を与えられて鍋山城に入城したが、新たな拠点としてこの天神山城を選び、天正16年(1588)に高山城の築城を開始した。

高山城解説板

山城使者之間の一部復元された石垣

 長近は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦でも東軍に味方して生き残るのだが、この頃には本丸と二ノ丸辺りまでが完成していたようだ。そして、3年後に麓の三ノ丸が完成したことで、本格的な近世平山城へと発展させたという。

 こうして、金森氏の飛騨支配の礎が築かれ、以後、100年余りに渡って金森氏の支配が続いたが、6代藩主頼時の頃の元禄5年(1692)に出羽上山への転封が命じられ、金森氏の飛騨支配は終わった。

 金森氏の後は天領となり、加賀藩前田綱紀が在番となっているが、3年後の元禄8年(1695)に、幕府は飛騨国内諸城の破却を命じ、金森氏時代に旅館として維持されていた支城増島城、萩原諏訪城と共に高山城は破却されてしまう。この破却は徹底的に行われたようで、現在の城には、石垣の痕跡すらほとんど無くなってしまっている。

高山城本丸下に残ってる石垣

高山城本丸付近の縄張

 以後、飛騨支配の政庁は、金森氏の下屋敷だった高山陣屋へ移ることとなるが、後に役職が代官から郡代に格上げされており、幕府が飛騨の資源をどれだけ重要視していたかが解るだろうか。

 城の構造としては、山頂部に総石垣で長方形の本丸を置き、その2段構成であった本丸の上段部分に、二層三階の天守と居館を複合させた建物があった。この天守兼御殿は、安土城の影響を強く受けた初期の天守や御殿の様式だったという。ただし、屋根は他の城の櫓や天守と違ってこけら葺きなどの板葺きで、これは雪が多い飛騨地方での修繕の都合によるものらしい。

 この本丸からは、南に大手を開いていたようで、大手の動線は、屈曲させながら2つの門を通り、南之出丸の大手門から大手道が出ていた。一方、搦手は、本丸の北東下に武者溜の機能があったと思われる北東郭を置き、やや離れた北側中腹に中段屋形、そして庭樹院屋形、二ノ丸屋形と大きな削平地が設けられ、その下に武家屋敷となる三ノ丸が置かれている。

高山城南之出丸の下の動線

本丸大手三ノ門付近に残る石垣

 政庁機能は、この二ノ丸屋形周辺が担ったと思われるが、山頂に居館が置かれていることから、本丸は単なる詰ではなかったようだ。全体的に見ると、山の南側が大手、北側が搦手だが、大手より搦手に施設が充実しており、やや不思議な印象を受ける構造でもある。戦時を考えると、平時に使われなかったと思われる、中腹に点在する削平地に柵を構え、兵の駐屯拠点とするつもりだったのだろうか。

 現在の城跡は、公園として綺麗に整備されており、下草もなく、非常に散策しやすくなっている。主郭部は総石垣であったはずだが、前述のようにかなりしっかりと破却されているため、石垣の痕跡はごく僅かしか残っていない。大手口から南之出丸、本丸にかけての動線は複雑で、石垣が取り払われた後の土壇も残っていて見応えがあるだけに、もし石垣が残っていたら、との感想が付いて回るのは致し方無い所だろうか。

高山城二ノ丸に建つ金森長近騎馬像

高山城中段屋形

 

最終訪問日:2017/5/19

 

 

高山や古川は外国人が好む観光地で、古い町並みや高山陣屋には、外国人観光客がべらぼうにいたんですが、この高山城にも、高山観光のついでに登る人がそこそこいるようです。

でも、石垣もほとんど破却されていて、お城の知識が無い人には、ただの自然公園としか感じられないような気がするんですが。

サンダルで登ってた外国人ファミリーなんかがいましたけど、楽しかったんでしょうか。

他人事ながら、心配になりますね。