Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

伊賀上野城

木造で再興された伊賀上野城の大小模擬天守

 伊賀の支配拠点だった城で、国名を冠した伊賀上野城として知られている。

 天正9年(1581)の天正伊賀の乱で、伊賀忍者としても活躍した伊賀の地侍達は、ことごとく信長に敗れたが、その戦いで主戦場のひとつとなって焼失した平楽寺跡に、同年、信長の次男北畠信雄重臣滝川雄利が築城したのが、上野城の最初という。

 その後、翌年の本能寺の変を経て織田姓に復した信雄と秀吉が対立した際、天正12年(1584)に秀吉の側近脇坂安治によって攻略され、そのまま安治が城主となったが、翌年には秀吉が弟秀長に大和一国を与えるため、筒井定次を伊賀に移した。

 上野城が近世城郭へと改修されたのは、この定次の時で、城の東側に三層の天守と本丸を設け、その西に二ノ丸、北に三ノ丸を置き、城の北側に城下町を整備したという。

本丸の高石垣と内堀を上から

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、定次は家康率いる遠征軍に従軍していたこともあって東軍に味方し、上野城自体は西軍の新庄直頼に落とされはしたが、本戦での戦功によって領地は安堵された。しかし、理由は不明確ながら、慶長13年(1608)には定次は改易となっている。この改易の理由としては、新旧家臣の対立説や政務倦怠説、京に近い伊賀を定次に任せることに家康が不安を抱いたという説、定次がキリシタンであったという説など、いろいろ囁かれているが、定説はないようだ。

 定次改易後、伊賀を領したのは藤堂高虎で、高虎自身は伊勢の津城を本拠としたが、伊賀の支配拠点として上野城を改修し、現在の城の形に完成させた。高虎は、大坂の豊臣家に対する抑えとして、また、徳川家と豊臣家が決戦する際には重要拠点として使えるよう、心血を注いで城を堅固にしたといい、城代には武名の高い渡辺勘兵衛了を据え、軍事的観点から城下町も南へ移したという。

復興天守から筒井氏時代の本丸であった城代屋敷の眺め

 天守については、最初、築城途中であった今治城の資材を流用しようと考えていたものの、丹波亀山城へ献上してしまったため、新たに五層の天守閣を計画し、工事を始めていたが、竣工直前の慶長17年(1612)に暴風雨によって倒壊したとされる。これが未完成に終わった天守に対する通説となっているのだが、一説には、その豪壮さを徳川家に憚って自ら破却したとも伝わり、君主に対する配慮が行き届いていた高虎らしい説と言えるだろうか。

 その後、大坂の陣で豊臣家が滅び、戦時の拠点としての役割を失ったためか、天守が再築されることはなく、出奔した勘兵衛に代わって高虎の弟高清、高清死後は藤堂元則から始まる藤堂采女家が城代を世襲した。ちなみに、元則の藤堂姓は高虎から与えられたもので、元は伊賀の地侍であり、中央権力にあまり服さなかった伊賀の地侍を懐柔する役目としては、内部の事情にも明るく適任だったのだろう。

城代屋敷の枡形虎口

 上野城は、比高30m程度の高台に築城されており、築城の名手として名高い高虎がよく使った高石垣は、この城においても効果的に使われ、高さ約30mもある内堀の高石垣は、今でもその美しさを保っている。未完成のまま倒壊した藤堂時代の天守は、筒井時代の場所から見て西に建てられ、筒井時代の天守閣と御殿は後に城代役所として使用された。ちなみに、この筒井天守は藤堂天守よりも長寿で、天守内の説明板によれば、寛永10年(1633)8月10日の暴風雨で倒壊するまで存在したという。

 現在の上野城は、外堀などが埋め立てられたりしているものの、天守や城代屋敷を中心とした主郭部分は整備されて公園となっており、城跡から眺める景色は非常に良かった。一番の見所はやはり高石垣で、内堀から高々とそびえる井楼積の高石垣は見事というほかなく、大坂城と並んで日本一の高さを誇る。

東の麓にある蛇谷堀

 城の建物は、明治6年(1873)の廃城令で廃城となった後、全国の城と同様に取り壊されたが、その後、完成することのなかった天守の代わりに、三層ながら昭和10年に川崎克氏が私財を投じて建設した木造の模擬天守が建てられた。この天守は模擬ではあるのだが、木造の良さか、非常に重厚感があり、往時のものと言われればそのまま信じてしまいそうな雰囲気が漂っているほどで、なかなか出来が良い。つくづく、城は木造でなくてはと思わされた。

 

最終訪問日:2007/10/24

 

 

伊賀忍者が有名なので、お城の内外では、城よりもどちらかと言えば忍者が主役といった雰囲気がありました。

とは言っても、高石垣などはひとつの完成形と言えるほど美しいですし、模擬天守の出来の良さもあって、城としての存在感は抜群です。