史跡
国道脇の壇ノ浦古戦場碑 元暦2年(1185)3月24日に行われた、源平の戦いでの最終決戦地。 平清盛が全盛を築いた伊勢平氏は、その晩年に陰りが見え始め、治承4年(1180)の以仁王の叛乱を契機として、全国で平家追討の狼煙が上がった。また、平家にとって運の悪い…
長府毛利邸 長州藩の支藩だった長府藩の最後の藩主であった毛利元敏が、その晩年に建てた邸宅。 長府藩は、毛利元就の四男穂井田元清の子秀元を藩祖とし、宗家である長州藩を継いだ当主を2人も出した名門であった。それは、藩祖の秀元が、従兄弟で宗家当主で…
高杉晋作誕生地の前景と碑 萩の武家屋敷町の中に残る、高杉晋作春風が生誕した旧宅。 晋作は、天保10年(1839)8月20日に、高杉小忠太春樹の嫡男としてこの家に生まれ、後に藩校明倫館や松下村塾で学び、久坂玄瑞とともに吉田松陰門下の両巨頭と目されるように…
松陰神社に移築されている松下村塾の建物 長州の幕末志士に絶大な影響を与えた、吉田松陰が主宰していた私塾。 松下村塾は、松陰が開いた塾というイメージがあるが、正確には、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)に開き、外叔父久保五郎左衛門が継承していた…
奇兵隊屯所跡の碑と極楽寺の由来 奇兵隊は、攘夷の藩論に従って外国船を砲撃する直前の文久3年(1863)6月、高杉晋作らによって発案、創設された。 名前の由来は、当時の正規軍であった武士の部隊に対し、身分によらない兵、正規ではない兵の部隊という意味で…
木戸孝允旧宅の前景 後に木戸孝允と名乗った維新三傑のひとり、桂小五郎の旧宅。門前の碑には木戸孝允誕生地とある。 幕末史では、木戸孝允よりも桂小五郎のほうが著名なのだが、孝允の実家は藩医であった和田家で、天保4年(1833)6月26日に昌景の子として生…
毛利氏は、鎌倉初期の名政治家である大江広元の末裔で、広元の四男季光が相模国毛利荘を得て地名を名乗ったのが、その最初という。そして、季光の孫時親がこの吉田へ下り、土着したのが安芸毛利家である。 その毛利氏を中国の雄へと押し上げた元就は、明応6…
毛利隆元は、毛利氏を戦国大名として雄飛させた、毛利元就の嫡男として大永3年(1523)に生まれた。 この年は、元就が後見していた甥の幸松丸が死去し、元就が家督を継いだ年であるが、誕生したのは、本拠の郡山城ではなく猿掛城だったとされることから、幸松…
毛利氏の家系を遡っていくと、鎌倉幕府初期の名政治家大江広元へと繋がるのだが、この大江氏は、伝承では天穂日命を祖としているように、古代から続く貴族で、阿保親王の侍女が身ごもったまま大枝本主に降嫁して大江音人が生まれたという皇胤伝説をも持つ。…
原爆ドームの外観 平和記念公園のすぐ横に建つ、世界遺産に登録されている史跡。 もともとの建物は、大正4年(1915)にチェコ人建築家ヤン・レツルの設計によって建築されたもので、当初は広島県物産陳列館という名前であった。同10年(1921)に商品陳列所、昭和…
天文24年(1555)10月1日に毛利元就と陶晴賢率いる大内軍との間で起こった、厳島の合戦の古戦場。 合戦の背景としては、合戦の4年前に起こった大寧寺の変が、その端緒となる。 大寧寺の変とは、西国随一の大名であった大内義隆が、重臣陶隆房(晴賢)の謀反に遭…
森鷗外旧宅の外観 森鷗外が少年時代を過ごした旧宅で、国指定の史跡。 鷗外は、文久2年(1862)1月19日に、代々津和野藩御典医を務めた森家の当主静泰の嫡子として生まれた。本名を林太郎といい、この旧宅では、10歳までを過ごしたという。 その後、明治5年(18…
龍源寺間歩の碑と坑道入口 但馬の生野銀山と共に、西日本で最も大規模に銀を産出した銀山。石見銀山は戦国から江戸時代にかけての名称で、佐摩銀山や大森銀山とも呼ばれた。 「石見銀山旧記」によれば、石見銀山は、延慶2年(1309)に大内弘幸によって発見され…
説明板では、非常に曖昧な古戦場の名となっているが、今の高知城の位置にあった大高坂山城を巡る北朝と南朝の戦いの跡である。 南北朝時代の土佐は、概ね北朝方が優勢に戦いを進めていたが、現在の高知市街である大高坂郷を支配していた大高坂松王丸は、南朝…
土佐の出来人と呼ばれた長宗我部元親の嫡子で、天正14年(1586)の戸次川の合戦において、22歳で討死した信親の墓。 信親は、永禄8年(1565)に元親とその正室との間に生まれ、幼名は千雄丸といった。 信親の母は、幕府奉公衆であった石谷光政の娘で、光政には、…
高知城下の国道33号線沿いにある坂本龍馬誕生地碑 幕末の志士、坂本龍馬直柔の生誕地。 坂本家は、明智光秀の一族の末裔という伝承を持ち、組み合わせ枡に桔梗という家紋が、同じく桔梗を家紋とした土岐氏の庶流である明智氏との繋がりを連想させ、さらには…
阿波守護だった細川氏之(持隆)が三好之虎(実休・義賢)に討たれた後、その弔いとして氏之の遺臣と三好軍が戦った鑓場の義戦の古戦場。 氏之は、阿波守護として管領細川晴元を支え、細川高国との戦いで畿内にも出陣するなどしていたが、将軍足利義晴の弟足利義…
三好之長・元長・実休・長治の4代が並ぶ墓 三好氏の菩提寺であった見性寺にある三好一族の墓。 三好氏は、鎌倉時代に阿波の守護を務めていた小笠原氏の庶流で、承久3年(1221)の承久の乱の恩賞により、小笠原長清が阿波守護職を得たことが、小笠原氏が阿波と…
源頼朝の愛馬であった生月誕生地の碑 源頼朝の愛馬であった生月が誕生したといわれる場所。 ただし、生月が産まれたという伝承を持つ場所は、この鳥取だけではなく、比較的近い淡路や広島、山口、四国といった西国はもとより、当時から馬の名産地として知ら…
鳥取城から仁風閣を望む 明治40年(1907)5月の皇太子行啓の際、かつての鳥取藩主池田家の家督を継いでいた徳川慶喜の五男仲博が、皇太子の宿舎として建てた池田家の別邸で、国の重要文化財に指定されている。 明治期に活躍した建築家で、赤坂離宮の設計者とし…
天正9年(1581)の鳥取城攻防戦で、鳥取城の将兵の命と引き換えに切腹した、吉川経家の墓。 経家は、毛利元就の次男元春が相続した安芸の吉川氏の庶流、石見吉川家の出である。本家である安芸の吉川氏は、鎌倉時代から安芸の有力な国人として聞こえ、元就の正…
足利学校の碑と入徳門 日本で一番古い学校施設で、学校が機能していた当時は、坂東の学校と呼ばれていた。創立に関しては、律令制の官人養成機関としての国学の流れという説や、小野篁の創立などの諸説あるが、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将である…
当時の部材で復元された碓氷関所の東門 信濃国から関東の上野国に入る場所に設置された関所。江戸時代には、東海道の箱根の関所と共に、主要街道の江戸に近い関所として、最重要の場所となった。 碓氷峠への道に関所が設置されたのは古く、平安時代の法令集…
国府台のすぐ西を流れる現在の江戸川は、戦国時代には渡良瀬川水系の太日川と呼ばれており、西隣の中川の流路を通っていた利根川が、武蔵と下総の国境であった。つまり国府台周辺は、国境に近い高台である上、太日川による防御線構築にも優れるという軍事的…
慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が終わり、翌年に江戸幕府が成立すると、江戸を中心とした物理的インフラとしての街道や、支配体制のための制度などが構築されて行くのだが、その中枢である江戸の防衛を図るため、全国各地に通行の監視のために関所が整備された…
江戸幕府最後の15代将軍徳川慶喜の墓。 慶喜は、徳川御三家のひとつである水戸藩の藩主徳川斉昭の七男として、天保8年(1837)9月29日に江戸で生まれた。父の教育方針によって、生後7ヶ月の当歳で江戸から移って以降、11歳になるまで水戸で過ごし、その聡明さ…
武田氏と北条氏の間で永禄12年(1569)に行われた、三増峠の合戦という山岳戦の古戦場跡。ミマセ峠と読む。 戦国時代の中頃より、時には争い、時には和していた甲斐の武田氏と相模の北条氏であったが、それぞれ武田晴信(信玄)、北条氏康が当主を務める時代にな…
三浦道寸は、諱を義同といい、三浦氏の実質的な最後の当主である。 三浦氏は、桓武天皇の第三皇子葛原親王の子か孫である高望王の系統で、一般に桓武平氏と呼ばれ、高望の庶子良文から始まったことから特に良文流という。この系統は関東で栄え、三浦氏を含む…
江戸幕府が、江戸城の内庭にあたる関八州と西国との出入りを監視するため、設けた関所。 碓氷関、新居関(今切関)、福島関と並んで幕府に重視された関所で、広義では東海道の脇街道にある川村関、谷ヶ関、矢倉沢関、仙石原関、根府川関の5つの関所を含んだ面…
バス停付近にある土肥郷椙山鵐ノ窟之碑 シトドノイワヤと読む。シトドとは、ホオジロなどの山鳥の小鳥の総称で、頼朝が来た時に洞窟から鵐が飛び立ったことからの名という。 平治元年(1160.1)の平治の乱において、平清盛に敗れた源義朝は落ち延びる途中の尾…