Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

史跡

山村代官屋敷

江戸時代に、木曽福島にあった関所の関守兼木曾谷の代官だった山村氏の下屋敷の一部。 江戸時代以前の山村氏は、源義仲の子孫という伝承を持つ木曾氏の家臣であった。木曾氏は、義康の時に武田信玄と争うが、やがて信玄に降伏して木曾谷を安堵され、子の義昌…

福島関跡

江戸時代にあった木曽路の関所の跡。江戸時代の天下四大関所の内のひとつ。 木曾谷では、源義仲の子孫を自称する木曾氏が古くから勢力を培い、福島へは戦国時代に城を構えて本拠を移してきたといわれている。 その木曾氏は、武田信玄と争ったものの敗れて降…

妻女山陣所跡

5回に渡って激突した川中島の合戦の中でも、最も激戦であった永禄4年(1561)の第4次川中島の合戦の際に、上杉政虎(謙信)が陣取ったといわれる場所。 川中島の合戦は、甲斐から信濃に侵攻して北信までを併呑しようとする武田信玄と、北信の豪族による救援依頼…

川中島古戦場

5回に渡って武田信玄と上杉謙信が激突した、あの有名な川中島の合戦の内、最も激戦だった4回目の戦いが行われた古戦場。 川中島の合戦の発端は、信玄が信濃攻略を進めたのに伴い、信濃守護であった小笠原長時や、信玄を2度までも敗北させた村上義清が領土を…

不動堂遺跡

昭和49年(1974)12月23日に国指定の史跡となった、縄文時代中期前葉から中葉にかけての遺跡。 北アルプスから流れ出る黒部川や小川の扇状地であるこの一帯は、現在もそうであるように昔からの田園地帯で、耕作のときに土器の破片が発見されることが多かったよ…

安宅関跡

梯川の河口部にあったみられる、弁慶と義経の逸話で有名な関所の跡。現地の碑には安宅関址とあり、安宅の関や安宅ノ関と書くことも多いようだ。 平家追討に大功のあった源義経は、後白河法皇に利用されて兄頼朝と対立し、叛乱の兵を挙げたものの、敗れて流浪…

徳川家康最初陣地跡 (桃配山)

桃配山に建つ徳川家康最初陣地跡の碑 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦で、家康が最初に陣を構えた場所。現地の碑には、徳川家康最初陣地と彫られており、それをスポット名としたが、歴史をある程度知っている人間には、桃配山の方が通りが良いのかもない…

徳川家康最後陣地跡

旗が靡く陣場野公園 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦で、家康が最終的に敷いた陣の跡。地名としては、床几場や陣場野という名が伝わっており、いずれも陣があった事からの名で、現在は整備されて陣場野公園となっている。 家康は当初、ここから東へ2kmほ…

関ヶ原古戦場

慶長5年(1600)9月15日に、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に担いだ石田三成率いる西軍が激突し、東軍が勝利して江戸幕府創設の端緒となった関ヶ原の合戦の古戦場。 豊臣政権内では、古くから福島正則に代表される武断派と、石田三成に代表される文治…

石田三成陣地跡 (笹尾山)

柵が復元されている石田三成陣地跡 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦で、事実上、西軍の現地総司令官だった石田三成が陣を敷いた場所。歴史を少し知っている人間なら、笹尾山の方が通りが良いかもしれない。現地の碑に従い、名前を石田三成陣地跡としたが…

今川了俊墓

今川了俊は、諱を貞世といい、南北朝時代に主に九州での活躍で名を馳せた武将である。 了俊は、宗家である足利氏に従って南北朝時代に駿河や遠江を務めた今川範国の次男として生まれ、今川家の家督自体は兄の範氏が継いでいたが、貞世も幕府の要職を務めるな…

三井家発祥地

呉服屋を興して江戸時代に豪商となり、明治時代には三井財閥を築いた三井家の発祥地。 商家である三井家は、他の江戸時代の多くの商家と同様に武家の出自で、そもそもの本貫の地というのは、この伊勢ではなく近江であったとされ、藤原道長の六男長家の流れで…

一乗谷朝倉氏遺跡

戦国期に小京都と評された戦国大名越前朝倉氏の城下町の遺跡。 朝倉氏は、一般には文明3年(1471)に、敏景とも呼ばれる英林孝景が一乗谷に城を築いたというが、それ以前にも攻防があったという記述が史料にあり、どうやら孝景以前から本拠としていたようだ。…

柳田国男生家

柳田国男生家 日本で民俗学という学問の確立に力を尽くし、民俗学の父とも称される柳田国男の生家。 柳田国男は、当時の神東郡辻川村、今の福崎町で明治8年(1875)7月31日に、この住宅で松岡操の六男として生まれた。父は姫路で儒者や医者、後には漢学の先生…

虎御前山陣所跡

虎御前山陣城布陣図 元亀元年(1570)の姉川の合戦で勝利した信長は、小谷城の南東約9kmにあって浅井領を南北に分断することが可能である横山城を奪取し、秀吉を城番にしていたが、立ち枯れるように佐和山城主磯野員昌の降伏に追い込むなどして南部を平らげ、…

垂水斎王頓宮跡

垂水斎王頓宮跡に祀られた小さな社 斎王とは、斎皇女(イツキノミコ)とも呼ばれ、天皇家の宗廟である伊勢神宮の祭主のことであり、後には賀茂神社にも同じく祭主が置かれ、そちらは特に斎院と呼ばれた。 斎王は、天皇家の宗廟に対する祭祀を執り行うため、当…

賤ヶ岳古戦場

天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の後、信長の実質的な後継者をの地位を巡り、柴田勝家と羽柴秀吉の間で紆余曲折があったが、最終的にその帰趨を決する戦いとなった翌同11年(1583)4月の賤ヶ岳の合戦が行われた古戦場。 本能寺の変で信長とその嫡男信忠が横…

紫香楽宮跡

紫香楽宮の一角を成した甲賀寺の礎石と境内跡 シガラキノミヤアトとも、シガラキグウシとも呼ばれる紫香楽宮の遺跡で、国の史跡に指定されている。 最初、紫香楽宮の場所には、聖武天皇が離宮を造営していた。この聖武天皇は、放浪と遷都を繰り返した天皇と…

甲賀流忍術屋敷

甲賀流忍術屋敷 俗に言う甲賀忍者であった、甲賀五十三家の筆頭格望月出雲守の邸宅として、元禄年間(1688-1704)に建てられた建物。忍者の住居としては、日本で現存する唯一の屋敷という。ちなみに、甲賀流という流派は無く、甲賀地方に伝わる忍術全体を指し…

旧西川家住宅

江戸時代中期に建てられた豪商の店舗兼住居で、重要文化財に指定されている典型的な近江商家。内部には江戸期の商人が使用した道具などが展示され、商家の資料館のようになっていた。入場料は、単館で見学もできるが、市立資料館やかわらミュージアムとの共…

織田信長墓

安土城の二ノ丸跡にある織田信長の廟所。本能寺の変の翌年の天正11年(1583)2月、秀吉によってゆかりの品々が納められて建立された廟所で、信長公本廟ともいう。 尾張国守護代織田家には、室町時代以降に並立した清洲織田家と岩倉織田家の二家があり、信長は…

石田三成出生地

石田三成の像と出生地の碑 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、事実上の西軍の総大将だった石田三成の出生地。石田正継の三男として生まれたが、誕生日は詳しく伝わっておらず、永禄3年(1560)とだけわかっている。 出自である石田氏は近江の豪族で、地理的関係…

姉川古戦場

織田氏と浅井氏が、それぞれ徳川氏、朝倉氏と連合軍を形成し、元亀元年(1570)6月28日に戦った合戦の古戦場。ちなみに姉川の合戦というのは徳川家における呼称で、浅井家では野村合戦、朝倉家では三田村合戦と呼んでいた。 同年4月の織田軍による朝倉攻めの際…

鶯塚古墳

鶯山古墳の後円部から前方部の眺め 名勝である若草山の山頂に造られた前方後円墳で、全長は103m、前方部の幅約50m、後円部の径約61mの規模を持つ。また、周囲には3基の陪塚と考えられる古墳がある。 枕草子において、うぐいすの陵として書かれているのがこの…

二條陣屋

二條陣屋前景 二条城や京都所司代に伺候する中小大名の陣屋として利用された建物で、両替や米穀が生業の、豪商萬屋の店舗兼住宅として建てられたものである。 萬屋を興した平右衛門の父は、豊臣政権期に大名であった小川祐忠で、平右衛門はその嫡男という。…

高槻天主教会堂跡

高槻天主教会堂跡の碑 高槻城主であった高山友照と右近重友の父子が、布教活動の拠点として建てた教会堂。 元亀4年(1573)、室町将軍足利義昭と信長の対立の中、高槻城を奪った友照と右近は、信長に仕えて城主と認められ、父子が信仰していたキリスト教を領内…

大仙陵古墳 (仁徳天皇陵古墳)

大仙陵古墳の遠景 第16代天皇の仁徳天皇の陵墓に比定されている古墳で、日本最大の前方後円墳として有名。 5世紀前半から中頃の築造とされ、宮内庁では百舌鳥耳原中陵、考古学的には大仙陵古墳というのが正式名称である。かつては、仁徳天皇陵や仁徳天皇陵古…

今城塚古墳

今城塚古墳の前方部と造出し部分 第26代天皇の継体天皇の陵墓に推定されている古墳。ただし、宮内庁の陵墓参考地には指定されておらず、発掘可能な大王墓として貴重な存在である。 今城塚古墳は、古墳時代後期の6世紀前半に築造された、二重の環濠を持つ前方…

山中鹿介幸盛墓

河畔に建立された山中鹿助幸盛の墓 山陰の麒麟児という異名をとった尼子家の忠臣、山中鹿介幸盛の墓。毛利氏に捕らわれていた幸盛は、高梁川と成羽川の合流点にほど近いこの場所で謀殺された。ちなみに、講談などでは、鹿之助の字があてられている。 尼子氏…

水攻築堤跡

蛙ヶ鼻築堤の全景 羽柴秀吉が、織田家の中国方面軍司令官として毛利軍と対峙し、備中高松城を水攻めした際に築いた堤跡。 天正10年(1582)、秀吉率いる織田軍は、中国地方攻略の緒戦として、境目七城と呼ばれる領境の城を次々と落とし、4月15日にはその要とな…