Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

足利学校

足利学校の碑と入徳門

 日本で一番古い学校施設で、学校が機能していた当時は、坂東の学校と呼ばれていた。創立に関しては、律令制の官人養成機関としての国学の流れという説や、小野篁の創立などの諸説あるが、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将である足利義兼が創立したとの説が有力という。

 時代が下り、室町時代初期には、鎌倉公方足利基氏による保護もあって興隆したが、次第に衰退して行き、室町時代中期の永享4年(1432)、あるいは同11年(1439)に、上野守護で関東管領でもある上杉憲実が、鎌倉から僧快元を運営責任者である庠主として招き、再興したとされる。ただ、一説として、応永30年(1423)頃から、鎌倉公方足利持氏が再興に尽力していたという説もあるという。

 憲実は、文安3年(1446)に学則を定めて仏教色を排し、これ以降、儒学、易学、兵学、医学などの関東における最高学府となって行く。ただ、学校整備というと、泰平の事業のように感じられるが、当時は憲実とその主君である鎌倉公方足利持氏が激突した永享10年(1438)の永享の乱などもあり、死を覚悟した憲実が書籍や絵画を足利学校へ寄進して身辺整理をしたこともあるなど、激動の時代であった。

 後に、上杉氏の家臣で足利荘の代官だった長尾氏が、応仁元年(1467)に渡良瀬川近くにあった学校を現在地に移し、戦国時代末期には、関東を支配した北条氏による旧金沢文庫本の寄贈などもあって隆盛となり、3千人の学徒がいたという。学徒も、多くの出身者が戦国武将に仕えるなどして独自のネットワークを持ち、安土桃山時代の宣教師ザビエルの手紙にも登場するほとで、その隆盛のほどが知れる。

 出身者としては、家康の側近であった天海が最も有名であるが、吉凶を占う軍師として、小早川隆景配下の玉仲宗琇や白鴎玄修、鍋島直茂配下の不鉄桂文、直江兼続配下の涸轍祖博がおり、医学を修めた曲直瀬道三も出身者としては有名だろうか。「甲陽軍鑑」には、長坂長閑斎が崇拝する徳厳という者について、武田信玄足利学校の出身者かどうかを聞く場面があり、その名の高さが窺える。

 江戸時代の足利学校は、幕府に年初めの吉凶を占うなど、幕府や足利を支配した藩による保護を受けて存続はしたが、形式論的な性格の強い朱子学が幕府の官学となったことで、実用的な学問の多い足利学校は、次第に郷学としての色彩が強くなり、近隣の子弟が学ぶようになった。ただ、その蔵書は非常に貴重で、上級の知識層にとっては、現在の図書館的な機能があったようだ。

 足利学校の校務としては、廃藩置県直後の明治5年(1872)に廃止され、建物の多くも撤去された。そして、蔵書が流出する危機にも見舞われたが、足利藩の旧藩士らの尽力によって散逸は免れ、足利文庫を経て明治36年(1903)には足利学校遺蹟図書館が設立されている。

 足利学校が持っていた蔵書は、中世からの貴重な書籍が多く、火災で一部を焼失したものの、足利学校遺跡図書館として現在も存続している。また、かつて学校だった場所には、敷地の大きさは半分ほどではあるものの、平成2年(1990)に江戸中期の足利学校の姿が復元された。この建物には、学校の書籍や絵画、史跡の出土品等を展示し、敷地内には、入徳、学校、杏壇の3つの門が建っている。

 

最終訪問日:2001/9/30

 

 

学校と言えば、国民皆学の近代的な香りの言葉ですが、平安時代ぐらいからあった言葉というのは、逆に新鮮ですね。

教えていた内容も、科挙絡みで儒教一本やりの大陸と比べて多彩なのは、日本らしいところでしょうか。