Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

平井城

 関東管領を務めた山内上杉氏の本拠。

 平井城は、永享10年(1438)に築城されたとされる。当時は、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実と対立して幕府によって討伐された争乱である、永享の乱が勃発した頃であり、上杉家臣で総社長尾家の祖となる長尾忠房によって築かれたという。

 ただ、乱の前年には、持氏が憲実を討つという噂が流れていたほか、平井城周辺の地形も峻険でないことから、戦時の拠点としては防衛設備の普請がかなり必要と考えられ、噂の流れた築城前年には、すでに工事に取り掛かっていた可能性も考えられるだろうか。

 永享の乱への流れとしては、根本の問題として、鎌倉公方家と足利将軍家の対立がある。幕府は、鎌倉府が差配する関東への影響を強めようとし、持氏は、親幕の豪族を討伐するなどして幕府の影響力削減を図り、徐々にその対立が深まって行った。

復元された平井城本丸土塁

 そこに将軍家の継承問題が発生し、籤引き将軍として知られる足利義教が将軍に就任した事で、将軍職を望んでいた持氏は、その不満から鎌倉府の独立を志向するようになる。これに対し、関東管領の憲実は、あくまで幕府との融和を図り、時に幕府の意向を尊重したことで、両者の対立が先鋭化してしまう。

 そして、前述のように、永享9年(1437)には憲実暗殺の噂が流れ、一旦は和解するものの、翌年に衝突は不可避な情勢となってしまった。こうして憲実は、鎌倉から領国である上野に退き、この平井城に籠ったのである。

 憲実の上野退避を知った持氏は、憲実討伐の軍を発し、いよいよ永享の乱が勃発するのだが、憲実が幕府に援軍を要請したため、幕府から命を受けた小笠原政康や今川範忠が侵攻して公方勢を破り、憲実も城を打って出て持氏方の一色直兼を破った。

平井城に建つ上杉氏の碑

 各所で敗れた公方勢は、兵が四散してしまったため、持氏はやむを得ず降伏して出家し、鎌倉の永安寺で幽閉されることとなる。

 憲実はこの時、持氏の助命と持氏の嫡子義久の公方就任を願い出ているが、その願いは義教に聞き入れられず、翌同11年(1439)2月に、幕府の命を受けて永安寺を囲んだ。これにより、持氏は自刃し、永享の乱は鎌倉府の滅亡という結果で終結した。

 乱後、憲実は出家して伊豆に退き、弟で上条上杉家の祖となった清方にすべてを託しているため、平井城は、実質的に山内上杉家を相続した清方の属城となったのだろう。

 清方の没後は、憲実の子憲忠が父の反対を押し切って家臣の擁立を受け、当主に就いたが、享徳3年12月(1455.1)に持氏の遺児で鎌倉府を再興させた成氏に暗殺されてしまい、その弟房顕が新たな関東管領として下向し、翌同4年(1455)4月に入城している。

平井城の惣構の役割を果たした庚申(荒神)堀

 この憲忠暗殺に始まる足利氏対上杉氏の争乱は、享徳の乱と呼ばれるが、この争乱は約28年間にも渡って続いたため、房顕は五十子陣に在陣していた時期も多く、この頃に平井城が本拠と考えられるかどうかには諸説があるという。

 その房顕は、寛正7年(1466)に五十子陣中で没したため、越後上杉家から顕定が迎えられ、山内上杉家家督を継いだ。この時、顕定の居城として山内上杉家臣の夏目(有田)定基によって雉岡城が築かれたが、手狭であったため、顕定は平井城に入城し、平井城に在った定基が雉岡城に入城したと「新編武蔵風土記稿」にある。これに従えば、平井城は定基の城であったということになり、顕定の入城に伴って再び本拠地となった平井城は、それに相応しいように大きく改修されたようだ。また、一説には、この翌年の応仁元年(1467)に、初めて平井城が築かれたともいう。

平井城堀跡

 その後、文明14年11月(1483.1)に享徳の乱終結するが、その少し前には重臣長尾景春の乱があり、顕定は同10年(1478)に景春の本拠であった鉢形城を攻略して本拠としたため、平井城は本拠ではなくなった。

 顕定の没後、跡を継いだ養子顕実は引き続き鉢形城に在ったが、もうひとりの養子で憲実の孫にあたる憲房と対立し、憲房は平井城を本拠として勢力を拡げ、永正9年(1512)に鉢形城を攻めて顕実を追っている。これにより、以降は憲房が実質的な山内上杉家の当主となり、憲房はそのまま平井城を本拠とした。

 その後、天文15年(1546)の河越夜戦で、旧権威である足利氏と両上杉氏が敗れると、憲房の子憲政は退勢を覆すことができず、同17年(1548)や同19年(1550)には小幡氏や北条氏による攻撃を受けている。これらの戦いでは、何とか攻め手を退かせたものの、神流川対岸の御嶽城まで北条氏の勢力が及ぶと、周辺の国人や馬廻週までが離反したため、憲政は落ち延びざるを得ず、天文21年(1552)3月に城は落城した。

平井城土塁跡

 城を奪取した北条氏は、北条早雲の子で一門の重鎮であった長綱(幻庵)を入城させたが、同年8月には長尾景虎(上杉謙信)が本庄繁長や平子孫三郎を派遣して平井城を奪回しており、長綱は武蔵に逃れたという。だが、その後に再び北条氏に奪われていたようで、永禄3年(1560)の景虎の越山の際に、再度奪回している。

 こうして上杉方に戻った平井城であったが、景虎は上野での拠点を厩橋城に定めたため、平井城は廃城となった。一説に、北条氏が撤退の際に破却していたためともいう。

 城は、鮎川がうねった地点の断崖を防御力としており、その崖際の部分に五角形の本丸を構え、鮎川に沿って北へ郭を重ねている。本丸の西に二ノ丸、南に二重の土塁と堀を挟んで三ノ丸、南西に笹郭を置き、二ノ丸の北に新郭、これら主郭部の北に総郭があった。

平井城本丸周辺の縄張図

 総郭の規模は大きく、ここには重臣などの武家屋敷や城下町が置かれたのだろう。城の西の外縁には、庚申(荒神)堀が廻らされ、鮎川と共に惣構の機能を担い、今の西平井公会堂付近に追手門があったようだ。

 現在の城跡は、開墾などで遺構が失われており、本丸付近が城跡としての痕跡を留めている程度である。これは平成に入って整備されたもので、土塁や堀などは復元されたものという。このほかでは、周辺集落には各区画の標柱などが建てられていた。

 賑わいは鎌倉を凌ぐともいわれた関東管領の本拠城としては、遺構が少なく寂しい状態だが、廃城時期が比較的早く、川沿いの平坦な地形という開墾適地であることを考えれば、中心部が史跡公園として整備されているだけでも有り難い。周辺は、のんびりとした農村地帯で、ゆったりとした気分で散策することができる城である。

 

最終訪問日:2019/5/12

 

 

平井城として保存されている部分は少ないですが、西平井の集落のあちこちに縄張の標柱が立てられていて、集落全体で城を示しているのがいいですね。

城全体が残っているのはもちろんいいですが、こういう生活の一部に溶け込んでいる城跡もいいものです。

集落全体で城跡を守って行ってもらえると、城好きとしては有り難いですね。