戦国時代の北武蔵の拠点となった平山城。荒川の河岸段丘上にあり、崖を防御力とすることから、崖城とも言える。
鉢形城の築城は、山内上杉家臣だった長尾景春によって、文明8年(1476)に築かれたという。
景春は、祖父景仲、父景信が山内上杉家の家宰を務めていた白井長尾家の出で、祖父や父を見ていた景春は、当然ながら自らも家宰に就けるものと思っていたが、文明5年(1473)の景信の死後には、その弟で総社長尾家を継いでいた忠景が就いた。
このことに不満を持った景春は、早くも翌同6年(1474)に扇谷上杉家の家宰であった太田道灌を叛乱に誘うなどの動きが見え、翌同7年(1475)に鉢形城に退いて籠り、さらにその翌年に挙兵する。これを長尾景春の乱というが、鉢形城の築城は、景春が引き籠った文明7年頃から始まったと見られ、挙兵の頃に一応の完成を見たのだろう。
この乱が起きた頃の情勢としては、享徳3年12月(1455.1)に鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺したことで勃発した、足利氏対上杉氏の享徳の乱の末期で、山内上杉家に対して叛乱を起こした景春は、当然ながら足利氏に通じた。
ここで活躍するのが、前述の道灌である。景春は、上杉方の対足利氏の最前線の拠点であった五十子陣を翌同9年(1477)正月に急襲して攻め落とし、両上杉勢を上野へと追い落としたが、南武蔵の江戸城を拠点とする道灌は、相模や武蔵で景春に同調した城を素早く落として回り、5月には用土原の合戦で両上杉勢と合流して景春を撃破した。そして、景春が逃げ込んだ鉢形城を囲んだのだが、この時は足利勢の出陣によって兵を引いている。
その後、景春も勢力を一時盛り返すのだが、上杉勢は翌年7月に再び鉢形城を攻撃して落とし、以後は山内上杉顕定の本拠となった。
ただ、関東の争乱はこの乱だけでは収まらず、道灌の活躍で勢力を拡大した扇谷上杉定正と、それを警戒した顕定が対立し、長享元年(1487)に長享の乱が勃発する。そして、翌年11月には、城の近くの高見原の合戦で定正が勝利しているが、鉢形城の落城は免れたという。
この戦いに象徴されるように、定正の在世中は、戦いは概ね定正優勢で進むのだが、政治的に優勢であった顕定には致命傷とならず、山内上杉家の勢力を何とか保っていた。
永正7年(1510)の顕定の没後、跡を継いだ養子顕実も鉢形城を維持しているが、顕定の別の養子であった憲房と争うようになり、城は同9年(1512)には憲房勢によって陥落している。これにより、顕実は実家である足利氏の古河へと落ち延びた。
憲房は、後に山内上杉家の家督を継承しているが、上野の平井城を本拠としたようで、以後、鉢形城の動静は不明となる。恐らく、山内上杉家の属城として機能していたのだろう。
その後、天文15年(1546)の河越夜戦により、旧権威である足利氏と両上杉氏が北条氏に敗北したため、北武蔵から上野に掛けて、急速に北条氏の勢力が浸透するようになる。この頃の鉢形城の事績は不詳だが、天文18年(1549)に長瀞の藤田重利(康邦)が臣従しており、地勢的にほぼ同時期に鉢形城も北条氏の手に渡ったようだ。
そして、永禄元年(1558)に北条氏康の五男氏邦が藤田氏へ養子として入り、同7年(1564)に鉢形城へ居城を移して城を改修したという。一説には、甲相駿三国同盟が手切れとなった永禄11年(1568)から翌年に掛けて、城を大改修して居城にしたともいわれる。
以後、北条氏の北武蔵の重要拠点となり、永禄12年(1569)に武田信玄が小田原城まで侵攻した際には、鉢形城も攻撃を受けた。また、天正2年(1574)には、上杉謙信の軍勢に城下を焼かれている。
この後、北条氏の武蔵支配は安定するが、氏邦の家臣猪俣邦憲が名胡桃城を奪ったのをきっかけとして、天正18年(1590)に小田原の役が起こってしまう。氏邦はこの時、野戦で迎え討つことを主張したが、その作戦は容れられず、氏邦は、小田原城ではなく、この鉢形城に単独で籠城している。そして、中山道で上野へ侵入した豊臣軍の北国勢に加え、小田原の本隊から下総や武蔵掃討に派遣された援軍の一部を加えた総勢3万5千が鉢形城を包囲した。
対する氏邦は、3千の兵で1ヶ月間に渡って持ち堪えたが、所詮は多勢に無勢であり、6月13日に城兵の助命を条件として開城している。
戦後、北条氏の旧領は家康に与えられ、家康は鉢形領の代官として成瀬正一と日下部定好を任じ、鉢形城やその周辺は代官支配となった。この代官支配の時代にも城は維持されたようで、多少の改修があったようだ。
廃城の時期は不明だが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に、正一と定好は伏見城留守居役に転じており、戦後の領地再編時か、その少し前に政情安定に伴って廃城になったのではないだろうか。
城は、荒川とその支流深沢川が合流する地点にあり、荒川の湾曲する流路に沿って屹立する崖上に築かれ、南西方向以外はその2つの川によって守られている。
縄張としては、2つの川の合流点に近い地点から南西方向に笹郭、本郭、二ノ郭、三ノ郭と続き、三ノ郭の南西に伝諏訪郭、同じく南に伝逸見郭と伝大光寺郭が続く。城の中心だった本郭は、大きく御殿郭と下御殿郭に分かれており、さらに御殿郭は3段に分けられ、本郭内で最も高低差のある場所では、御殿郭と下御殿郭の高低差が10m程度あった。また、城の大手は、三ノ郭と伝逸見郭の南西に開かれている。
北条氏時代と思われるが、深沢川の東に城下町と惣構が構築されており、城域が大幅に拡張された様子が窺え、この外郭には家臣の屋敷が並んでいたのだろう。一方、三ノ郭から伝逸見郭や伝諏訪郭に掛けての辺りは、非常に技巧的な構造であり、崖以外の南西方向を固める強い意志が窺える。あるいは、城内の最高部が三ノ郭の西端であることから、この辺りが初期の鉢形城中核部であった可能性も考えられ、その名残なのかも知れない。
鉢形城跡は、廃城以降にあまり人の手が入らなかったようで、良好に遺構が残っていたことから、昭和7年(1932)という早い時期に国の史跡に指定されている。現在は、史跡公園として綺麗に整備され、当時の様子がよく解るようになっており、非常に散策し甲斐のある城となっていた。北条氏の重要拠点のひとつであり、その広大な城域と土の城らしい土塁や堀に圧倒される城である。
最終訪問日:2019/5/12
長尾景春の乱に始まり、関東の戦国時代を語るには、欠かせない城ですね。
時間が遅くて歴史館が閉まっていたのは残念でしたが、綺麗に整備されているので、当時はどうだったのかというのを想像をしながら歩いて回るのが愉しい城でした。