Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

金山城 (平井金山城)

 関東管領を務めた山内上杉氏の本拠平井城の、詰城と推測される山城。

 金山城の里城となる平井城は、永享10年(1438)から翌年にかけての永享の乱の際に築かれた。永享の乱とは、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実と対立し、幕府によって持氏が討伐された争乱である。

 その乱の前夜、鎌倉府の独立を志向する持氏は、幕府の意向を尊重する憲実と対立し、衝突は不可避な情勢となった。そこで憲実は、鎌倉から領国である上野に退き、平井城に籠ったのだが、平井城はこの時に上杉家臣で総社長尾家の祖となる長尾忠房によって築かれたという。ただ、乱の前年には、持氏が憲実を討つという噂が流れており、この頃にはすでに築城に取り掛かっていた可能性も考えられるだろうか。

 金山城は、この平井城の詰城として築かれたと考えられているが、金山城に関する史料がほぼ無いため、具体的な築城時期についてはよく判っていない。平井城の築城と同時期に整備されたとも、文正元年(1466)に越後上杉家から入った顕定が、山内上杉家を継いだ際の平井城の大改修の際に築かれたといもいう。

金山城全景

 築城後の平井城は、憲実の戦時の本拠地として機能した後、憲実の隠退で山内上杉家の本拠ではなくなった。だが、鎌倉府の廃絶と復活を経て、憲実の長男で関東管領となった憲忠が、享徳3年12月(1455.1)に持氏の子で鎌倉公方となった成氏に謀殺され、足利方と上杉方が全面衝突となった際、憲実の次男房顕が再び平井城を本拠としている。

 この衝突は享徳の乱と呼ばれるが、長引く争乱の最中に房顕が五十子陣で没し、前述のように顕定が平井城を大改修して入城したが、後に文明8年(1476)からの長尾景春の乱の際に攻略した鉢形城へ移り、平井城はその属城となっていたようだ。

 顕定の没後、跡を継いだ養子顕実も鉢形城に在ったが、もうひとりの養子で憲実の孫にあたる憲房は、平井城を本拠として勢力を拡げ、永正9年(1512)に鉢形城を攻めて顕実を追い、以降は実質的な山内上杉家の本拠となった。

 これら一連の流れの中で、平井城が猛烈な攻撃に晒されることが無かったため、金山城が使われる事も無かったと思われる。

金山城案内板

 その後、天文15年(1546)の河越夜戦で、旧権威である足利氏と両上杉氏が敗れると、憲房の子憲政は退勢を覆すことができず、天文17年(1548)や同19年(1550)に小幡氏や北条氏の攻撃を受けているが、この時も金山城の動向は知れない。そして、国人衆や馬廻衆までが憲政から離反したため、同21年(1552)3月に憲政が平井城から沼田城へと落ち延びたが、このような状況であったため、金山城も戦闘に使われることなく放棄されたのだろう。

 この後、8月には長尾景虎の援兵によって平井城は奪回されるが、再び北条氏の手に落ちたようで、景虎が永禄3年(1560)に越山した際に平井城を再び奪い返している。ただ、景虎厩橋城を遠征拠点としたため、平井城は廃城となり、金山城も同じく廃城となったのだろう。

 金山城は、平井城の南西1km強の位置にあり、大手は平井城のある北東方向に開いていたようだ。本丸は、城域中央の南端にあり、そこから東の峰筋に二ノ丸、三ノ丸を置き、北の峰筋に段郭を重ね、その西に井戸郭があったという。

 訪れた時は、予定が押す中、麓からの登山であったため、城へ登るのは断念した。現在の登山道は、当時の大手とは反対の南側にあり、三ノ丸の東の物見台へと繋がっているようだ。また、県道175号線沿いに駐車場が用意されており、安心して訪問することができる。

 

最終訪問日:2019/5/12

 

 

淡い期待を持って金山城を訪れましたが、麓からの登山だったので、先の予定の時間を考えて登城は断念せざるを得ませんでした。

そこに見えているだけに、悔しいですね。

ただ、平井城も金山城も、地元の方による保存が活発なようで、周辺は整備が行き届いていて、とても有り難いです。