Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

亥鼻城

 千葉氏累代の居城で、地形的には台地上にあり、崖城に近い平山城。イノハナと読み、別名を千葉城ともいう。

 桓武天皇の孫とも曾孫ともいわれる高望王が、臣籍降下によって平姓を賜り、その子孫は桓武平氏と呼ばれたが、千葉氏はその桓武平氏のひとつである。

 高望は、後に国司となって上総国に赴任した後、任期終了後も帰洛せず、現地や周辺国に開拓領主として一族を配したが、これとは別に、その五男の良文も盗賊討伐の勅命によって相模に下向し、父と同じく関東各地に勢力を扶養した。これにより、関東各地に桓武平氏の武士団が成立したのだが、良文流の主な武士団は特に坂東八平氏と呼ばれたという。

 千葉氏も、その坂東八平氏のひとつで、良文の孫忠常が、常陸や上総、下総の領地を相続し、千葉四郎と名乗ったと伝わっている。ただ、忠常を千葉氏の祖としてはいるが、初代として数えられるのはその子忠将で、千葉郷在住の在庁官人の下総権介という意として千葉介を称したことによるという。ただし、公式に千葉介が確認されるのは曾孫の常重の頃で、常重の父で常将の孫にあたる常兼も千葉大介を名乗ったと伝わっており、常兼や常重を千葉氏初代と数える場合もある。

 伝承によれば、常重は大治元年(1126)6月1日に上総国大維から千葉へと本拠を移し、開発した領地を寄進して千葉荘を成立させ、自らは荘官となり、その支配のために亥鼻城を築いたという。

千葉常胤の像と模擬城である千葉郷土博物館

 だが、元の本拠だった大椎城に平安時代の遺構が見当たらない事や、古い時代に成立した史料には大椎が出て来ない事、また、父の常兼が千葉大夫と呼ばれ、千葉荘の検非違使だったことが見えることから、この移転は後世の伝承に過ぎず、もっと早い時代から千葉郷や千葉荘が千葉氏の本拠だったとする説に説得力があるようだ。

 その後、子の常胤の時代に、以仁王が平家追討の令旨を発し、挙兵した事をきっかけとして、源平の争乱が勃発する。この時、常胤の嫡子胤正や六男胤頼が頼朝と連絡を取っていることから、千葉氏は、挙兵以前のかなり早くからの頼朝与党だったようだ。

 頼朝は、挙兵後に石橋山の合戦で敗れ、伊豆半島から房総半島へと船で渡り、房総平氏の千葉勢や上総勢と合流すると、西進して鎌倉へと入り、鎌倉政権樹立の第一歩を記した。千葉氏も頼朝軍に付き従って功を挙げ、草創の功臣のひとりとして各地に領地を得ている。

 後の元寇の際には、このようにして得た九州の領地を持っていたことから、頼胤、その討死後には嫡子宗胤が九州へと下り、防衛の任に就いたのだが、本国下総では次男胤宗を擁立する動きがあり、ここから千葉氏の内紛が始まってしまう。

残存する亥鼻城の本丸土塁

 この内紛は、南北朝時代に差し掛かっても収まらず、一族は南北に分かれて争い、宗胤の子胤貞が北朝方に、胤宗の子貞胤は南朝方に与した。そして、貞胤が北朝方に降伏したため、胤貞が惣領に復帰するかと思われたのも束の間、胤貞が急死してしまったことにより、結局は貞胤の系統が惣領となっている。また、九州の領地を保っていた胤貞の弟胤泰がそのまま九州に定着し、肥前千葉氏となった。

 以降、貞胤の子氏胤の時代には、父から引き継いだ下総と伊賀の守護職に加えて上総守護にも就くなど、勢力を拡大させたが、氏胤の子満胤は、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に、禅秀の娘婿となっていた子の兼胤と共に加担し、翌年に幕府軍に降伏している。

 兼胤の子胤直の時代になると、鎌倉公方足利持氏は幕府からの独立性を強め、幕府との間を取り持った関東管領上杉憲実と対立するようになり、永享10年(1438)8月に憲実が居城である上野国平井城へ逃れると、持氏は討伐軍を差し向けた。いわゆる永享の乱である。

 平井城に逃れた憲実は、幕府に援軍を依頼し、駿河の今川氏や信濃の小笠原氏に救援が命じられ、持氏は敗れるのだが、胤直は、この戦いの当初は持氏に味方し、途中で離脱して憲実の軍に加わった。また、直後に持氏の遺児が擁立された永享12年(1440)から翌年に掛けての結城合戦でも、幕府側として戦っている。

亥鼻公園の東側の階段は亥鼻城の搦手と伝わる

 これらの一連の戦いの後、鎌倉府は廃されてしまうのだが、関東の諸豪族の間では鎌倉府復興の機運が燻っており、再興運動の結果、持氏の遺児成氏が新たな鎌倉公方として任命され、文安2年(1445)、同4年(1447)、あるいは同6年(1449)に鎌倉府が再興された。

 この頃、胤直は憲実と共に出家して隠退していたのだが、鎌倉府再興が成ると、長尾景仲と太田資清が叛乱した江ノ島合戦に子胤将が成氏方として参陣するなど、成氏を支えている。

 しかし、新たに関東管領に任命されたのは、成氏にとって親の仇である憲実の嫡子憲忠であり、どちらも代替わりしたとは言え、勢力間の緊張も感情的なしこりも温存されたままで、体制としては上手く行くわけがなかった。やがて、享徳3年12月(1455.1)に成氏は憲忠を謀殺して上杉氏討伐の軍を発し、30年近くに渡る享徳の乱が勃発する。

 この争乱は千葉氏にも強い影響を及ぼすこととなり、上杉方として活動していた胤直に対し、親足利の立場にあった叔父馬加康胤と重臣原胤房が叛き、翌年に胤房が亥鼻城を急襲した。胤直と子胤宣は、これにより亥鼻城から落去して千田荘へ逃れたが、防戦むなしく自刃に追い込まれてしまう。

亥鼻城の物見台だったと推測される神明社

 これにより、康胤が千葉惣領を称したが、上杉氏を支援する幕府はこれを容認せず、常胤の六男胤頼の系統という、古くに分かれた一族である東常縁を派遣した。

 美濃から下総に下った常縁は、胤直の弟胤賢の子である実胤と自胤を擁して康正2年(1456)に康胤を討ち、胤房を追うことにも成功し、康胤の子とも千葉庶流馬場胤依の子で氏胤の曾孫にあたるともいう千葉輔胤が陣取っていた亥鼻城も攻略したが、輔胤は落ち延びて足利方のひとつの勢力として確立したため、実胤や自胤の惣領奪還はならず、千葉惣領のシンボルだった亥鼻城も廃城になったという。

 一方、伝承とは別に、現在に残る遺構の特徴から、原氏が戦国時代に築いた城という説も有力だ。永正13年(1516)に三上佐々木氏が亥鼻城を攻撃していることが見えるが、この時の守備側は原氏であり、原氏によって築城され、活用されていたと推測されているという。

 城は、現在の千葉市街の低地に張り出した丘陵の突端に築かれ、その名は、丘陵突端が猪の鼻に似た形であったとも、亥の方角に向かって張り出していた鼻と呼ばれる丘陵であったからともいわれる。時代が下った文政8年(1825)には、佐倉藩によって海防のための猪鼻陣屋が置かれており、後世でも軍事上の要地であったことの証左と言えるだろう。

亥鼻城解説板

 発掘調査の結果からは、千葉医大や県立中央博物館の辺りまで城郭であったと伝わっていたが、中世の遺物の出土が少なく、現在の亥鼻公園一帯に城域は限定されるようだ。また、千葉氏の本拠城という伝承もあるが、実際は、活用されていたとしても、詰城として使われたと見られている。

 城の構造としては、主郭たる第1郭が模擬天守の郷土博物館の南側、第2郭が博物館の南東側、3郭が神明神社となっており、主郭と神明神社の間の窪みは堀切の名残という。博物館の区画が主郭とどのような繋がりや機能分担であったかは分からないが、主郭と資料館は同高ながら間に土塁が残っており、別の郭になっていたようだ。また、文化会館と資料館の間にも土塁と思しき盛り上がりがあり、資料館北側にも土塁があることから、城の範囲は、発掘調査が行われた部分よりも少し大きいと思われる。

 散策した限りでは、規模としてはそれほど大きくなく、確かに守護家の本拠城としては手狭と感じた。実際の千葉氏の本拠は、低地に置かれた居館と考えられており、具体的には、都川を挟んだ向かいの低地の地方裁判所近辺が比定地のひとつという。これが正しいのであれば、確かに詰城として使われたと見るのが合理的である。

 このように、千葉氏の本拠としては色々な説を持つ城ではあるが、模擬天守や千葉常胤の像もあり、千葉氏ゆかりの城という雰囲気はしっかりとある城だった。

頼朝や家康も喫したというお茶の水の跡

 

最終訪問日:2022/11/28

 

 

訪れたのが月曜というのもあって、郷土資料館が休館日で、千葉氏の色々な資料を見ることができなかったのは残念でしたね。

でも、常胤の像を見たり、大きな土塁に登ったり、神明社辺りを見て回ったり、城跡としては良かったです。