Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

国府台城

 江戸川左岸に張り出すように横たわる、国府台と呼ばれる丘陵地の突端部に築かれた平山城。別名を市川城といい、鴻之台や市河の字が当てられることもあるようだ。

 城が最初に史料に登場するのは、享徳3年12月(1455.1)から始まる鎌倉公方足利成氏と上杉氏の対立である享徳の乱の際で、乱の影響によって上杉方であった千葉氏惣領の千葉胤直に対し、親足利の家臣の原胤房と胤直の叔父馬加康胤が翌康正元年(1455)に叛き、胤直を滅ぼした直後である。

 この時、胤直の弟胤賢は、子の実胤・自胤と共に落城する志摩城から脱し、胤賢は小堤城で自刃に追い込まれるも、子の2人は八幡荘まで逃れて市河城で挙兵した。その市河城が、この国府台城とされる。

 この千葉氏の内訌に対し、上杉氏を支援する幕府は、古くに千葉氏から分かれた美濃の東常縁を下総に派遣し、常縁は、実胤と自胤を擁立して胤房や康胤と戦ったが、成氏が重臣簗田持助を派遣して来るなど劣勢で、康正2年(1456)1月19日に市河城は落城したという。

 これにより、実胤と自胤は武蔵に逃れ、常縁が翌年に康胤らを追うことには成功するものの、康胤の子とも岩橋に在った千葉庶流ともいう輔胤が、佐倉を中心として下総に勢力を確保したため、結局は2人が下総へ帰還することは叶わなかった。ちなみに、武蔵に定着した2人の系統を武蔵千葉氏と呼ぶ。

 ただ、この一連の戦いで登場する市河城は、国府台城ではなく、真間にあった別の城ともいわれている。

里見公園となっている国府台城の標柱

里見公園案内図

 次に城の事績が見えるのは文明10年(1478)で、自胤を支援した扇谷上杉氏の家臣太田道灌が、輔胤の子孝胤を討つべく境根原合戦の前に仮陣を置いた際、城地として適していることを見抜き、翌年の臼井城攻めの際に弟資忠に城を築かせたという。前述のように、市河城と国府台城が同一の城でなかったとするならば、これが城の創始となる。

 その後、武蔵と下総の国境の城であることから、周辺や関東の情勢の複雑さを考えると、争奪が繰り返されたと思われるのだが、具体的な形では史料に登場しない。次に城が歴史上に登場するのは、天文7年(1538)の第一次国府台合戦の際で、古河公方足利晴氏と結ぶ北条氏綱と、晴氏の叔父である小弓公方足利義明が激突した時である。

 この第一次国府台合戦の際、義明が里見義堯ら味方する大名を従え、約1万の兵力でこの国府台城に入城した。そして、北条勢が江戸川を渡る際に弓を射掛けるべしと主張した義堯らの意見を退け、義明は、自らの武を恃んで北条勢渡河後に自ら迎え討つ事に決め、国府台城から北の相模台へ出陣している。

 結果的にはこれが仇となり、突出した義明だけでなく嫡子義純も討たれるなど、義明方の被害は甚大で、北条軍の追撃によって小弓城や真理谷城までが北条氏の影響下に入った。当然ながら、この合戦後には、国府台城は落城したか放棄されたと思われ、戦後には北条方の高城胤吉が国府台周辺を押さえており、その属城となったのだろう。

公園内のお花見広場は広い上に最高地にも近く主郭のひとつと思われる

公園内の市川氏最高標高地点は櫓跡か

 それから四半世紀後の永禄6年(1563)、この国府台を舞台として、里見氏と北条氏の戦いが起こった。

 直接の要因としては、前年に上杉方であった太田氏の武蔵松山城が北条氏によって攻められたためで、同じく上杉方であった里見氏が救援に向かい、北条方がそれを阻止すべく国府台で迎え討った合戦である。ただし、同年には里見氏が葛西近辺に進出して小競り合いが起こっており、その延長線上にあった合戦とも言えるだろう。

 この戦いでは、里見氏が国府台を掌握していたことから、城も合戦に先駆けて攻略され、里見氏の手に渡っていたと見られる。また、「本土寺過去帳」に見られるように、永禄6年正月8日に合戦が行われ、遠山綱景が討死したようだ。つまり「北条五代記」を始めとする諸々の軍記物に記された第二次国府台合戦の前半部分が、この戦いであったと考えられるという。

 軍記物に記された合戦の経過を要約すると、北条方の江戸衆が、矢切辺りで江戸川を渡河し、国府台への展開を図ったが、台地へ上がる矢切大坂一帯で里見軍の待ち伏せを受け、里見勢が大勝利したとする。この時、江戸城の城代であった北条方の遠山綱景や富永直勝、舎人城主の舎人経忠らが討死したという。

公園内の台状の地形も櫓跡と思われる

公園内にある里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑

 この翌年、義堯の子義弘が、1万2千の兵を率いて再度入城した。国府台城は、前年の戦い以降、里見氏がそのまま維持していたと見られ、この国府台での3度目の戦いは、軍忠状から永禄7年(1564)の2月20日前後に起こったようだ。

 軍記物に記された合戦後半部分では、北条軍の主力は、台地南東の須和田へと迂回し、里見軍を急襲したとある。里見軍は、大軍なだけに、国府台城を中心とした周辺にそれぞれ陣を張っていたのだろう。それに対して北条軍は、傾斜の緩い南東方面から攻撃を仕掛けており、前年の敗北の轍を踏まないよう軍を展開したと言える。

 合戦の経緯としては、軍記物で伝えられた内容によると、義弘が兵に酒を振る舞ったというのは真偽不明ながら、里見軍が敗れたのは確実で、多くの将兵が討死したほか、義弘も辛うじて戦場を脱したほどであったという。そして、勢いを駆った北条軍が、上総まで雪崩れ込む事になった。

 戦後、北条氏の優位が決定的となり、以後の国府台城の事績は不詳ながら、千葉氏や原氏、高城氏などの千葉一党が北条氏に隷属を深めており、北条方の城として使用されたと思われる。

明らかに土塁と思われる地形の上部は広い

国府台城跡から江戸川と東京の遠景

 天正18年(1590)の北条氏滅亡後、その旧領を与えられた家康は、領内の整理を行い、その過程で戦時の城である国府台城も廃城となった。一説に、江戸城周辺を見下ろす事ができたためともいう。

 城は、江戸時代に寺院の境内として使われ、後には陸軍病院の用地に活用されたことから、南東と北東の部分の遺構は消滅しており、そのほかにも現代的な都市公園として整備されている部分があるため、全体像を想像するのは難しい。だが、総寧寺の北北西には細長い谷筋が延びており、これも防御力の一端を成したと思われるなど、推測できる部分もある。

 城内には、市川市の最高標高地点もあり、周辺の中で最も高い場所に築かれたいたことが判る。往時も、城の地形からすると、櫓台として使われていた場所なのだろう。これ以外にも、明らかに櫓台と見られる地形もあった。ただ、土塁と見られる部分は多いのだが、それが不規則な曲線を描く部分があるなど、北条氏系の城郭とは雰囲気を異にしており、当時からこの形だったのか、後世の改変なのか、現地から縄張を想像しにくい城である。

 

最終訪問日:2022/11/28

 

 

江戸川に迫る国府台城は、とても迫力がありました。

ここに城があれば、対岸から見ると、かなり嫌だったでしょうね。

周辺が何度も戦場になったのがよく解ります。