Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

佐倉城

 最初の佐倉城は、下総千葉氏の千葉親胤が、天文年間(1532-55)末期に下総千葉氏の祖である千葉輔胤の曾孫鹿島幹胤(神島胤重)に命じて城を築城させたことに始まる。ただし、親胤はまだ元服前の頃であり、実権を握っていた一門家臣の原胤清か、その子胤貞辺りが主導したのだろう。

 この時は、親胤が反北条の方針を示したことで、北条軍の侵攻によって幽閉された上、弘治3年(1557)に親胤が暗殺されたことにより、完工には至らなかったが、城地は鹿島台と呼ばれるようになった。

 その後、親胤の跡を兄とも叔父ともいう胤富が継ぎ、その子邦胤の時代にも築城が試みられたようだが、この時も邦胤が恨みを持った家臣に斬られて横死してしまったことにより、築城は中止されている。

 江戸時代に入った後には、慶長11年(1606)に小笠原吉次が城に入部したという説もあるのだが、確実に城として完成するのは江戸時代で、慶長15年(1610)に土井利勝が3万2千石で佐倉に入部し、家康の命を受け、7年を掛けて近世城郭として再築した。

佐倉城本丸を囲う土塁上にある天守跡の碑

佐倉城本丸の城門となる一ノ門跡から本丸全景

 ただ、利勝は、江戸幕府初期の大政治家で、秀忠の側近として老中を務めており、佐倉城にはほとんど在城しなかったと見られる。

 佐倉藩としては、寛永10年(1633)の古河転封まで利勝が藩主を務めているが、功が重なり、最終的な石高は14万2千石にまで加増された。この石高が歴代の佐倉藩の石高では最も高い石高となる。

 利勝以降の佐倉藩は、親藩譜代が入部する藩となり、石川氏、形原松平氏、堀田氏と短期間で入れ替わり、万治元年(1660)に堀田正信が無断帰城によって改易となっているが、その後も大給松平氏、大久保氏、戸田氏、稲葉氏、大給松平氏と、10年から20年程度で移封が続いた。そして、延享3年(1746)に堀田氏が再封し、以降はそのまま維新まで続いている。

 これらの歴代藩主の内、利勝をその最初として、堀田正盛大久保忠朝、戸田忠昌、稲葉正往、松平乗邑、堀田正亮、堀田正睦という多くの老中を輩出した藩であり、幕府にとって佐倉藩がどういう位置付けであったかが、よく解るだろう。

佐倉城本丸上の銅櫓跡

佐倉城大手門跡

 維新後の城は、明治6年(1873)の廃城令で存城となり、全国に置かれた7つの軍管の内、東京鎮台が管轄した第一軍管の下部組織である第二師管の営地となった。このため、第二師管は佐倉師管と呼ばれたが、駐屯地の運営は各駐屯部隊に任せられており、佐倉城では建物の撤去が進んだ。

 その後、この佐倉師管を源流とする陸軍歩兵第二連隊の、後に第五十七連隊の駐屯地として引き続き運営され、これらは佐倉連隊と呼ばれたが、昭和20年(1945)の太平洋戦争を経て軍事施設が解体され、昭和39年(1964)に佐倉城址公園となった。昭和54年(1979)から公園の整備が本格化し、茶室や菖蒲園が造られ、バリアフリー化も進められている。

 城は、干拓が進む前の印旛沼が北側に控えた比高30mほどの丘陵地にあり、現在ではそこに流れ込む鹿島川とその支流高崎川を西と南に廻らせる形となっているが、川筋も干拓された地形であり、築城以前は印旛沼か川か境界が曖昧な沼沢地に囲まれていたのだろう。

佐倉城大手門脇の空堀

佐倉城縄張図

 城の構造としては、その丘陵上の西南端に本丸を構え、本丸の南東を囲うように二ノ丸を置き、続いて三ノ丸があった。屈曲する三ノ門から東は惣郭と呼ばれていたが、幕末には三ノ丸御殿が存在しており、まとめて三ノ丸と呼ばれていた可能性があるだろうか。北は、三ノ丸から角馬出となっている椎木門を経て椎木郭があり、この4郭が主郭部であった。

 丘陵南東側の惣郭には、前述のように藩主屋敷である三ノ丸御殿のほか、重臣の屋敷が建ち並び、広小路と呼ばれる直線的な大通りの先に巨大な大手門があったという。この広小路の北側には、天神郭とよばれる区画もあったようだ。また、本丸から崖下に下りた場所には、防御のために小さな出丸が2ヶ所設けられているほか、丘陵の南側には延々と城南堤が続いており、丘陵の下にも配慮した様子が窺える。

 現在の城跡は、本丸から三ノ丸に掛けて良好に遺構が残っているほか、復元も進んでおり、建物類は無いものの、江戸時代の様子を偲ぶことができるようになっていた。復元された椎木門の角馬出を経た先には、椎木郭跡に国立歴史民俗博物館が建っており、こちらも一緒に見て回るのがお勧めである。

復元されている椎木門の角馬出

丘陵部の南の下に築かれた城南堤

 

最終訪問日:2023/11/11

 

 

城のある丘陵の南側からひよどり坂を通って城内に入ったんですが、あの丘陵上に巨大な城があったと考えると、堅城の雰囲気がプンプンしてました。

深い空堀と広大な削平地を持つお城ですから、土のお城が好きな人には堪らないですね。