Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

春日城

春日城本丸

春日城の沿革

 平氏の末流粟田口重吉の16代の孫と称する春日重慶が、天文3年(1534)に3百貫の領地を得てこの地に築城したのが城の始まりで、春日の姓から春日城と呼ばれたが、重慶は後に伊那部姓を名乗ったことから、伊那部城とも呼ばれる。

 当時、伊那地方には統一勢力が無く、諏訪氏の庶流や小笠原氏の庶流が割拠する状態であった。そんな中、天文10年(1541)には甲斐守護の武田信虎が子晴信(信玄)によって追放されるという事件があり、晴信は信虎時代の方針を転換して諏訪地方、伊那地方へと侵攻するようになる。

 天文14年(1545)、諏訪地方や佐久地方をある程度制圧した晴信は、本格的に伊那へ侵攻を始め、これに対して上伊那の中小勢力は福与城主藤沢頼親を旗頭に対抗した。この時、その救援に向かうべく、信濃守護小笠原長時の弟で松尾小笠原家牽制のために伊那に在った信定が、2千余りの救援軍をまとめ、この春日城に本陣を置いたという。史料には、鋳鍋(イナベ)に本陣を取るとあり、それがこの春日城のこととされる。

 この晴信の侵攻は、50日間の籠城戦の末に藤沢頼親を降伏させて福与城を落とし、これを受けて伊那の豪族達も次第に武田氏に服属していったが、伊那部氏がいつ頃に服属したかは不明という。ただ、天文23年(1554)には、信定が武田軍に敗れて伊那から追われており、少なくともこの年までには武田氏に降ったようだ。また、この間に当主は重慶から重成、重親と代を重ねている。

春日城の本丸を囲う内堀は相当な深さがある

春日城二ノ丸

 しかし、戦いはこれで終わらず、弘治2年(1556)には重親が他の上伊那衆7人と共に武田氏に叛いて捕縛され、城から天竜川を越えた反対側の狐島で処刑されたという。この時、同時に処刑された中に春日河内守という武将がおり、城と関係があった可能性があるが、現地説明板では重親の子と推測している。ただ、記録の混乱があり、処刑に重親を含まないとする史料もあるようだ。

 重親の没落後、春日城に入ったのは、春日河内守昌吉なる武将で、信玄が個人的に信頼する武将に与える昌の偏諱があったと推測されることから、武田氏に近しい武将であったようだが、その素性は不明である。重親の子春日河内守と名字や官途が同じであることから、伊那部氏一門の親武田方武将だったのかもしれない。

 昌吉が城主を務めていた頃には、春日城は武田家が拠点化した高遠城の支城として機能しており、信玄の子仁科盛信高遠城に入った天正9年(1581)からは、昌吉は盛信の指揮に従っている。そして、翌年の信長の甲州征伐の際には、昌吉は盛信と共に高遠城に籠もり、城門を死守して討死したという。そして、春日城も同じく兵火に掛かって灰燼に帰し、そのまま廃城となった。

春日城二ノ丸橋付近の中堀の様子

春日城三ノ丸にはいくつかの段差がある

 城は、天竜川西岸の河岸段丘上にある崖城で、南東の突端部にある本丸から北西にかけて郭を重ねる梯郭式の城であり、方形の本丸の西から北にかけて二ノ丸が囲い、その北西に三ノ丸が続くという構成である。

 城外の防御線としては、丘陵北東側と南西側が谷筋となって落ち込んでいるほか、東に天竜川の大河、やや離れて北東側に小沢川、南西側に小黒川が流れ、三方向を川で防御できる上、北西側には木曽山脈から伸びる山塊が控えているという、うまく天然の地形を防御に利用した城だ。

 近代的な伊那文化会館の南東側は、陽光が映える長閑な春日公園となっているが、これが城跡である。本丸から三ノ丸に掛けては、その間の空堀を含めて非常によく遺構が残っており、堀が深いためにそれぞれを繋ぐ橋が掛けられていて解り易く、特に三ノ丸と丘陵を区画する堀と本丸を囲う堀は見事で、思わず嘆息してしまうほどだった。本丸の先は崖となっており、この地形が城の防御力の源泉なのだが、このおかげで天竜川沿いに広がる市街地の眺めがすこぶる良い。

 非常に整備の手が行き届いている上、景色も良く、伊那に来た際には是非訪れておくべき城だろう。

春日城三ノ丸橋から外堀を眺める

春日城から伊那市街を望む

 

最終訪問日:2012/10/12

 

 

伊那の城特有の、山塊から延びる丘陵地を利用した城で、丘陵地だけに眺めがとても良くて爽快です。

城跡は、予想以上に綺麗に整備されていて、びっくりしました。

ピクニックに来てる人もいて、のんびりお弁当が食べたくなるお城でしたね。