Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

春日山城

現地にある春日山城鳥瞰図

 あの上杉謙信の居城として有名な城で、五大山城のひとつ。

 謙信は、もともとは越後国守護代を務めていた越後長尾氏の出である。その長尾氏は、坂東八平氏に数えられる桓武平氏の裔、有名な三浦氏や鎌倉党と同族であり、その祖は景弘や景行という。史料上では、源頼朝の挙兵戦である治承4年(1180)の石橋山の合戦で、平氏方であった大庭景親の配下として、長尾定景と為宗の兄弟が見える。

 その後、長尾氏は惣領筋である三浦氏の家臣となっていたようだが、三浦一族は、鎌倉幕府成立後に執権北条氏と対立して宝治元年(1247)の宝治合戦で滅び、その家臣であった長尾家当主の景茂も討死したため、以後の長尾氏は不遇であったようだ。

 長尾氏が再び勢力を得るのは南北朝時代で、景茂の孫景為が、鎌倉幕府の6代将軍になった宗尊親王に従って鎌倉に下った、観修寺重房の被官となってからである。

 重房は、丹波国上杉荘を与えられて上杉を名乗り、孫憲房は足利尊氏に味方して功を挙げ、その子憲顕は最初の関東管領となったが、この時の長尾家当主景忠は、上杉家の執事を務め、上杉氏と共に勢力を各地に扶養した。

 謙信の家系である越後長尾氏は、景忠の弟とされる景恒を祖とし、その子孫は3つの家に分かれたが、景恒三男の高景の流れである三条長尾氏、つまり後の府中長尾氏が守護代職を世襲することとなる。

 その府中長尾氏が居城としたのが、この春日山城で、築城されたのは南北朝時代という。城の立地としては、守御所のある直江津の府中を始め、北陸道や信州、関東への街道を押さえる位置にあり、高景が居したともいわれていることから、府中の南西1里の詰城として高景が築いたのかもしれない。名前の由来は、築城の際に麓に移った春日神社があった山だからというが、別名として八ヶ峯城とも呼ぶ。

 春日山城を本格的な戦国城郭に改修したのは、守護であった上杉房能に対し、その養子定実を擁して永正4年(1507)に永正の乱を起こした為景である。為景は、乱後に定実を傀儡化して国主の地位を得、越中へも侵攻したが、その晩年には上条定憲の挙兵があり、揚北衆などの国人の叛乱もあって、治世は安定してはいなかった。

 為景の跡を継いだ嫡子の晴景は、為景の強引な手法への反省からか、定実を守護に戻して国人衆との融和政策を採ったが、逆にその指導力を国人衆が疑問視し、還俗して栃尾城主となった弟景虎が周辺国人をたちまち平定したこともあって、景虎擁立の動きが出始めるようになる。そして、定実の仲介もあり、晴景は天文17年(1548)に景虎家督を譲って和解した。ここに、後の上杉謙信となる越後国主が誕生したのである。

 謙信は、国内での家臣の叛乱などに苦労しつつも、北条氏康の勢力伸張によって関東から落ち延びてきた上杉憲政や、武田信玄に敗れた信濃の国人を保護し、その要望で幾度もの関東出兵や信濃出兵を繰り返した。有名な5度の川中島の戦いや、小田原城の包囲は、このような戦いの中のひとつの局面である。

 ちなみに、その小田原城を包囲した永禄4年(1561)は、包囲の直後に鎌倉の鶴岡八幡宮で憲政から上杉の名跡関東管領職を相続し、秋には最も激戦だった4回目の川中島の合戦を行っており、いろんな意味で謙信にとって節目の年となった。

 謙信の晩年は、武田氏と盟を切った北条氏と同盟を組むなどして西に目を向け、越中を平定し、一時は信長とも同盟したが、後には本願寺と和睦して反信長包囲網の重鎮として存在感を示している。そして、越中に続いて能登を攻略し、加賀も攻めたが、新たな遠征の準備中であった天正6年(1578)に死去した。

 謙信の死後、春日山城では、共に謙信の養子である景勝と景虎家督を争った御館の乱が勃発し、春日山城の本丸や金蔵、兵器庫などの主要部分を占拠した景勝が三ノ丸に拠る景虎を攻撃する。一方の景虎は、麓の御館という建物に退去して兄の北条氏政に助けを求め、氏政は出陣の準備をすると共に同盟軍である武田勝頼に協力を依頼した。

 この動きを知った景勝は、金蔵の1万両と上州沼田を譲渡する約束で勝頼と和睦して北条氏の援軍も撃退し、翌年には御館を落として争いに勝利したが、この乱によって織田家に加賀や能登へ侵攻する隙を与え、恩賞の不満から新発田重家が離反するなど、上杉家の勢力は大幅に減退してしまうのである。

 その後、天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横死し、その後継者争いによって織田軍の侵攻が止んだため、ひと息ついた景勝は、失地の回復と家中の引き締めに取り掛かった。そして、叛乱した国人を討つなどして家中を立て直し、同14年(1586)には信長の実質的後継者となった秀吉に臣従している。

 以後の景勝は、秀吉によく仕えて五大老のひとりに列し、慶長3年(1598)には、蒲生氏に代わって東北への抑えとなるべく、会津へ加増転封となった。

 景勝転封後、春日山城には堀秀政の嫡男秀治が入り、春日山城を近世的に改修している。だが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、より政庁機能を重視した平城を直江津に築き始め、秀治の子忠俊の代である慶長12年(1607)に福島城が完成し、長らく越後の主城として存在した春日山城は役目を終えた。

 現在の春日山城は、謙信と景勝の代に普請が繰り返されて壮大な戦国山城となった姿を非常によく残している。

 頂上には本丸と天守台があり、近くには、謙信の信仰心の厚さを示すように、毘沙門堂、諏訪堂、護摩堂といった宗教施設が複数置かれているのが特徴的だ。この本丸の一段下には二ノ丸、更に下に三ノ丸と続き、搦手には三段に分かれている直江屋敷を配して防御としている。

 そのほかにも、柿崎屋敷や景勝屋敷など無数の郭があり、麓には1.2kmにも及ぶ惣構があった。これら天守や惣構などは近世的で、景勝か堀氏の時代の普請だろう。

 有名な謙信の居城ということもあり、観光客も多く、それに伴ってかなり整備された遊歩道が全山に整備されており、非常に登り易い城となっている。おかげで、戦国当時の完成された山城の様子が、とてもよく観察できるありがたい城だった。

 

最終訪問日:2001/9/17

 

 

壮大な山城ですが、散策が非常に快適だったので、あまり疲れは感じませんでした。

城のあちこちを歩いたので、相当、歩数が伸びていたはずなんですが、ワクワク感というのは凄いですね。

あと、若かったからかな?笑

今行くとかなりしんどいのかもしれませんが、もう1度行きたいですね。