Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

栃尾城

栃尾城の本丸と切岸

 栃尾城のはっきりした築城時期は不明だが、城としての体裁を整える以前より砦として使われていたと伝わる。ただ、険しい山上の立地や、目ぼしい記録も無い事から、恒常的に使われていなかったのかもしれない。

 最初に城という形として築いたのは、宇都宮氏の配下として主家を左右するほどの実力者であった芳賀高名(禅可)とされる。

 宇都宮氏は、将軍尊氏と弟直義の対立である観応元年(1350)からの観応の擾乱の際に尊氏側に付き、直義側だった上杉憲顕に代わって乱後に越後守護職を得、出家していた禅可に代わって子が守護代となったのだが、その実権は禅可が握っていたようだ。よって、禅可が越後国内の拠点のひとつとして築いたものと考えられている。

 築城年代としては、南朝元号の正平年間(1347.1-1370)と伝わるが、具体的には、観応の擾乱終結した正平7年(1352)から、宇都宮氏の越後守護職が剥奪された同17年(1362)までの10年の間で間違いないだろう。

 守護職剥奪後、宇都宮氏や芳賀氏は、越後の再支配を進める上杉氏に抵抗しており、栃尾城でも戦闘があった可能性はあるが、鎌倉公方足利基氏が支援する上杉軍は優勢で、やがて武蔵岩殿山で敗れた宇都宮氏は基氏に降伏した。

栃尾城説明板

 これ以降は、栃尾城は上杉家臣長尾氏の支配下にあったようで、蔵王堂城にあった古志長尾氏が栖吉城に移ってきた頃から、栖吉城の北東の鎮めとして機能するようになり、古志長尾家臣の本庄氏が城主を務めたという。

 この本庄氏の中で有名なのが実仍で、守護代長尾為景の子景虎(謙信)を城に迎え、その初期の軍師を務めているが、そのきっかけは、子の無かった越後守護上杉定実に伊達稙宗の子を養嗣子として迎えるかどうかの賛否で、国内豪族を二分する対立が発生したためである。

 為景は、越後守護上杉房能、その兄で関東管領であった上杉顕定を相次いで討ち、長尾家の戦国大名化を推し進めた梟雄で、入嗣推進派であったが、跡を継いだ嫡男晴景にはそれほどの統率力が無く、為景の没後は国内をまとめ切れなかった。これに対する策として、天文12年(1543)に景虎が三条城を経て栃尾城に入り、国内諸豪族や独立心旺盛な揚北衆への抑えとなったのである。

 ただ、これは一般に知られる軍記物の謙信譚であり、実際の勢力図を見てみると、揚北衆に対しては、三条城のほうがより揚北衆の領地に近い上に府中長尾氏の古くからの領地でもあるため、強い基盤があり、栃尾城よりも抑えとしては適していた。また、景虎は、古志長尾氏の持つ古志郡司の権限を得たとされ、後に古志長尾氏の景信が景虎と共に上杉に改姓していることや、母虎御前が古志長尾氏の出であることも考えると、景虎は景信の養子として栃尾へ入ったと見るのが妥当だろう。

栃尾城二ノ丸

 これには、為景が娘を上田長尾氏に輿入れさせたのと同様に、晴景も末弟景虎を古志長尾氏に半分人質のような形で入嗣させ、一族の結束を促す狙いが見える。あるいは、前年に病没した為景の遺命であったのかもしれない。

 いずれにしても、元服間もない景虎の未知の軍事的才能ではなく、血脈による結束が期待されていたというのが実際のところだろう。

 ところが、栃尾城に入った景虎は、翌13年(1544)に侮って城に攻め寄せた国人衆を見事に撃退して軍事的才能を顕し、その後も晴景が期待した以上の功績を収めた。そして、天文14(1545)と翌年の黒田秀忠の2度の叛乱の鎮圧を境に景虎擁立の動きが強まり、晴景の地位を脅かすようになる。

 この争いを仲裁したのは越後上杉家最後の当主となった上杉定実で、結果、天文17年(1548)に、景虎は晴信の養子になるという形で家督を継承した。

 このようにして、景虎が長尾家の家督を継ぎ、春日山城へ入ると、実仍も謙信の側近として春日山城に移ったため、栃尾城は城代支配の城となったようだ。史料を見ると、永禄3年(1560)に栃尾城将として本庄玖介と宇野左馬介の名があり、栃尾衆と呼ばれる軍団が編成され、栃尾衆の金井修理亮や大関定憲が宣誓書を提出している。

栃尾城三ノ丸

 その後、天正6年(1578)に謙信が病没すると、上杉家中では謙信の養子である景虎と景勝の間で家督争いが起きるが、上田長尾氏出身の景勝への対抗から景信は景虎を支持し、かつて古志長尾家臣であった実仍の子秀綱も景虎方に味方した。

 秀綱は当初、春日山城から近い御館に在ったが、その落城寸前に脱出して基盤のあるこの栃尾城に戻り、籠城している。しかし、景虎自刃後の天正8年(1580)に景勝軍の猛攻で落城し、秀綱は会津に落ち延びたという。

 これ以降、城には景勝の家臣が在番し、慶長3年(1598)の上杉氏の会津転封後には、新たに越後に入部した堀氏の家臣神子田政友が7千石で入城した。

 堀氏は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際に東軍に与したため、西軍の上杉家の扇動によって越後各地で上杉遺民一揆という叛乱が起こり、栃尾でも一揆方による多少の動きはあったようだが、大きな争乱にはならなかったとみられる。そして、慶長15年(1510)に、堀氏が家中対立から越後福嶋騒動を起こして改易されたことに伴い、城も廃城となった。

栃尾城松ノ丸

 城は、天然の堀となる西谷川の西に切り立つ標高227mの鶴城山にあり、頂上部の本丸と標高が同程度の二ノ丸を中心に築かれ、本丸と二ノ丸間を大きく抉って区画し、それぞれから続く大きな2つの峰筋の郭群で構成されている。きっちりと機能が分けられたわけではないが、一城別郭と言えなくもないだろうか。

 本丸はやや湾曲した長い楕円形で、周囲は断崖であり、東側の城下方向の見晴らしが素晴らしい。この本丸の峰筋は、北側に一段下がって細長い郭が松ノ丸、三ノ丸、五島丸と続く。反対側の二ノ丸の峰筋には、中ノ丸、琵琶丸、少し離れて馬継場や狼煙台詰郭が細長く連なり、全体的には、本丸の峰筋を縦棒とするT字型に近い形だ。これ以外には、本丸の北東方向の中腹に金銘泉や千人溜、各武将の名を冠した郭が続き、根小屋を構成している。

 駐車場から数分登ればトイレがあり、ここから本丸、二ノ丸、松ノ丸へと道が出ている。だが、城内は本丸と二ノ丸を除いて藪化が進み、松ノ丸や三ノ丸が獣道状態で、中ノ丸はほぼ藪となってしまっており、散策が難しかった。

 とは言え、各郭間の堀切などは明確で、特に三ノ丸と松ノ丸間、本丸切岸と松ノ丸の間、中ノ丸と琵琶丸間の堀切は非常に鋭く、これぞ山城という迫力がある。ちなみに、中腹の根小屋区域へは、麓の諏訪神社から登れば行けるようだ。

栃尾城松ノ丸と三ノ丸の間の堀切

 

最終訪問日:2014/5/11

 

 

下調べでは、城への道は未舗装ということでしたが、舗装が完了していて、駐車場まで楽に行くことができました。

ただ、城内は藪となっている場所もあったので、見晴らしが素晴らしかっただけに、惜しい城でしたね。