Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

阿尾城

阿尾城解説板

 氷見市の北端、その名も城ヶ崎という海に突き出した岩質の丘陵に築かれた城。

 明確な築城時期は不明だが、遺物から15世紀後半頃には城として機能していたようだ。氷見の北部一帯では、当時は吉滝氏や八代氏が勢力を持っており、そのいずれかの属城だったのかも知れない。

 城が史料に登場するのは、戦国時代後期で、九州肥前から来た菊池武勝・安信父子が城主として見える。

 伝わる話によると、武勝は肥後菊池氏の一族で、島原半島周辺の肥前国高来に居たが、兄武平の討死をきっかけに筑前や薩摩など諸国を流浪し、越後で上杉氏に仕えたという。そして、対織田戦に功を上げ、阿尾城主を任された。

 時期的には、上杉氏が越中諸城を攻略して自領に組み込んだ天正4年(1576)か、その翌年に七尾城を陥落させて能登支配下に置いた頃のことかと思われる。また、別の説として、父子が九州から氷見に土着したという説も伝わっており、これに拠るならば、上杉氏の侵攻以前から阿尾城主だったのかも知れない。

阿尾城本丸全景

 その後、同6年(1578)の謙信の病没と直後の家督争いである御館の乱により、能登越中の諸将に動揺が走り、また、同時に攻勢を強めた織田軍によって両国は蚕食されて行くのだが、武勝もその動揺したひとりであったようで、織田氏に臣従していることが見える。織田軍が上杉軍に快勝した10月の月岡野の合戦前後に、織田氏に帰属したのではないだろうか。

 この頃、越中の諸将に織田氏への帰属を働きかけたのは、守護代の家系である神保長住で、長住は後に失脚してしまうのだが、失脚後に武勝がその取り成しを働きかけていることが見え、両者の繋がりを窺うことができる。

 このようにして、越中織田家の領国へと塗り替えられて行き、天正8年(1580)から翌年に掛けて佐々成政越中へ入国し、正式に支配を任された。この頃、武勝には領地安堵の朱印状が出されており、能登の国衆が寄騎として前田利家に付けられたのと同様に、佐々成政の寄騎になったと見られる。

多段の阿尾城二ノ丸の上段から下を見る

 天正10年(1582)に本能寺の変が起こると、成政は越中で踏ん張り、上杉軍の逆襲を食い止め、やがて越中の統一に成功するのだが、中央では信長の後継者として秀吉と柴田勝家が争い、成政は、翌同11年(1583)の賤ヶ岳の合戦に出ることなく、盟主たる勝家を失ってしまう。

 この結果、成政は秀吉への降伏を余儀無くされるのだが、続いて天正12年(1584)に小牧長久手の合戦が起こると、織田・徳川連合軍に味方し、再び秀吉に対抗した。だが、秀吉に味方した前田利家の城である朝日山城や末森城を8月から9月に掛けて攻撃したものの撃退され、次第に利家に対して劣勢と成って行く。

 このような状況の中、11月に武勝は利家から密かに調略を受け、前田側に転じたようで、翌年4月には、利家自ら阿尾城に進出して入城し、前田慶次郎利益が城代となった。これを聞いた成政は激怒し、守山城主神保氏張に命じて6月に阿尾城を攻撃させたが、前田家臣村井長頼の支援もあって撃退に成功している。

阿尾城三ノ丸の上段に鎮座する榊葉乎布神社と土塁

 その後、武勝は前田家中で阿尾城主として1万石を領したが、嫡子安信が慶長年間(1596-1615)の初頭に死去したこともあり、京都に隠棲したという。菊池家の名跡は、斎藤氏からの養子である大学が継ぎ、子孫は前田家の重臣として続いた。

 また、阿尾城は、安信の死去と同じ頃の慶長2年(1597)頃に廃城となっているが、これは恐らく安信の死去と武勝の隠棲に伴い、国衆の城下集住が進められた結果なのだろう。

 城のあった城ヶ崎は、恐らくは元が島であったが、北側が砂州となって陸繋島になったものと推測され、丘陵全体が海食性の断崖で囲まれた要害である。史料には出てこないが、立地的に水軍の拠点として使われた可能性も高いのではないだろうか。

 城の構造としては、東西両端のピークの内、東南の先端に本丸を構え、西北側部分を三ノ丸とし、間の鞍部を二ノ丸としている。本丸は、1m程度の段差で南北に2段の構成となっており、二ノ丸は重層的な高低を持ちながら最も平坦部が広く、三ノ丸は高低差のある大きく2段の削平地で構成されていた。

阿尾城案内図

 発掘調査では、二ノ丸と三ノ丸から大量の陶磁器などが出土しており、主な居住空間は二ノ丸と三ノ丸だったようだ。このほか、三ノ丸の縁部の土塁や、二ノ丸から本丸に掛けての細い武者走りに堀切のような窪みがあるなど、あちこちに城郭構造物も確認できる。

 阿尾城のあった城ヶ崎を現地で見ると、まるで軍艦が停泊しているような圧倒感があり、これぞ海際の城という趣があって良かった。城へは、国道160号線の阿尾交差点からすぐなのだが、是非ともやや離れて海岸線から遠景を確認して欲しい城である。

 城内は、遊歩道が整備されており、人の手もよく入っているようで、非常に散策しやすかった。本丸には展望台があり、天気が良ければ立山連峰も見ることができるだろう。

 

最終訪問日:2018/5/29

 

 

氷見の市街地などから見ると、岩の壁のように見える場所に城があります。

なので、お城の展望台からの景色は最高でした。