Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

魚津城

 松倉城から角川をまっすぐ下ったところにあるという立地場所でも解るように、魚津城は、もともとは松倉城の支城として築城された。築城年代に関しては、建武2年(1335)に椎名孫八入道が築城したという説もあるが、魚津市では、15世紀に同じく椎名氏によって築かれたとしている。

 椎名氏は、南北朝時代には松倉城を本拠地としていたようだが、松倉城は、南北朝時代には度々南朝方の主城としても使われるなど変遷が激しく、実際に椎名氏がずっと支配し続けいてたかどうかというのは史料からは掴み難く、また、その入城時期も不鮮明である。ただ、南北朝合一後になると、越中の守護であった畠山氏に属して支配が安定したようだ。

 魚津城の築城時期としては、椎名氏が、越中入部期の領地である松倉郷から、海沿いの魚津にまで勢力を拡げたという背景が必要となる。それは、畠山氏の重臣として安定した時期、つまりは魚津市の説の通り15世紀と見るのが良さそうだ。

 その後の椎名氏は、守護の畠山氏から新川郡の守護代を任されていたものの、戦国期には、同じく守護代であった神保氏と共に畠山氏からの独立を志し、この動きを抑えるべく畠山氏の依頼で越中に出陣してきた長尾為景に敗れ、臣従した。

富山城址

 その後、為景没後の混乱によって後ろ盾となっていた長尾氏が衰えると、これを機と見た神保氏と度々争って次第に利を失い、新川郡を蚕食されてしまう。この神保氏の攻勢に対し、当主の康胤は、長尾氏と共にこれに抗し、永禄3年(1560)に松倉城へ攻め寄せた神保長職に対しては、為景の子景虎を頼って撃退に成功している。

 だが、永禄11年(1568)には、今度は康胤が武田信玄の調略に乗って一向一揆に味方し、景虎から名を改めた上杉謙信に叛旗を翻した。このため、謙信が自ら越中に出陣して康胤を攻撃し、その後に幾度か魚津城の攻略と奪回があったようだ。最終的には、謙信が越中東部を掌握して椎名氏は没落し、魚津城に河田長親を入れ、後に長親は松倉城に転じた。

 その後、上杉家では、山間の山城である松倉城よりも、物流の拠点と成り得る魚津城の方を重視したようで、織田氏越中に迫った天正9年(1581)頃には、重臣斎藤朝信を魚津城に入れて守らせているほか、翌年には、包囲されていた魚津城の救援に当主景勝自ら向かったことが見える。

魚津城説明板

 しかし、この時は関東と信濃の織田軍が本国越後を衝く気配があり、景勝は後詰決戦を諦めて止む無く撤退せざるを得なかった。その1週間後、約3ヶ月の籠城に耐えながらも、後詰を失ったことで、もはや落城必至と見た中条景康、吉江景資、竹俣慶綱、蓼沼泰重らの城将は覚悟を決め、一斉に自刃して6月3日に落城するのである。奇しくも、本能寺の変の翌日のことであった。

 ただ、一説には、この落城は織田軍の騙まし討ちであったともいう。魚津城と同時に攻撃されていた松倉城は、開城によって須田満親が越後へ無事に撤退しているが、魚津城でも同様の交渉があり、次郎右衛門なる織田方の武将が開城を保証する人質として入城したと佐々成政が記している。しかし、信長から総攻めの命が届いたことで次郎右衛門は切腹し、前述の攻撃と落城に繋がったという。

 魚津城落城後、城をようやく攻略した織田氏の北陸方面軍であったが、落城翌日には信長横死の報が伝わり、総大将であった柴田勝家は魚津城を放棄して各部隊に撤退を命じている。

 すると、息を吹き返した上杉軍が再び魚津城を奪い返し、さらに進んで越中を所領としていた佐々成政とも戦った。だが、成政は混乱する状況の中で踏ん張り、翌年には魚津城を包囲して城将須田満親を降伏開城させ、再奪取に成功している。

魚津城址にある大町小学校周辺案内図

 その後、天正13年(1585)に秀吉が越中平定を企図して大軍で押し寄せると、成政は降伏し、成政の領地として残されていた新川郡も、天正15年(1587)には前田家に与えられ、魚津城も前田家が支配することとなった。

 前田氏時代は、城代として青山吉次が置かれ、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった後も青山家が代々周辺を治めている。また、慶長14年(1609)に前田利長の隠居城となっていた富山城が火災で焼失した際には、魚津城が一時的な避難場所になった。

 城は、江戸時代の絵図に、方形の主郭と二重の水堀が描かれており、南北の鴨川と角川を天然の防御線とするシンプルな城だったようだ。ただ、城下町が整備される前の戦国時代は、沼に囲まれた要害だったという。

 城は、現在の市街地の海側にあったが、遺構は市街化で失われ、その存在を示すものは、大町小学校内の城址碑のみとなっている。城域としては、その大町小学校と隣接する簡易裁判所がそれにあたるようだが、現地では、城下町の町割りがなんとなく窺える以外、城跡というのを実感するのは難しい。

 

最終訪問日:2017/5/20

 

 

毎度の事ながら、学校が城跡の場合は妙に緊張しますよね。

事案にならないように・・・

魚津城の場合は、土曜日で子供がいなくて助かりました。