Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

都道府県別-山梨

八ヶ岳高原ライン

八ヶ岳に沿うように、その南東麓を通り抜ける観光道路。その誕生の経緯から、八ヶ岳高原道路や八ヶ岳横断道、八ヶ岳公園道路とも呼ばれる。 当初は、中央道の小淵沢I.C.から八ヶ岳方面への観光有料道路八ヶ岳横断有料道路として、山梨県企業局によって整備さ…

本栖みち

富士川と富士五湖の本栖湖を結ぶ道で、国道300号線の内、本栖交差点から身延町の国道52号線までの、国道139号線と重複していない区間を本栖みちと呼ぶ。全長は約25km。 富士山近辺の道には、それぞれ御坂みちや道志みちのように、山梨県によって愛称が付けら…

道志みち

一般的に道志みちと言えば、山梨県の山中湖から神奈川県相模原市までを通る国道413号線の愛称として使われ、区間は、山中湖畔の旭日丘交差点から相模原市緑区の国道412号線との交点である青山交差点や、同じく重複区間の三ヶ木交差点、あるいは緑区橋本の国…

湖北ビューライン

湖北ビューラインから河口湖と富士山 富士五湖のうち、西湖と河口湖の北側湖岸を辿る道路で、正式名称は、山梨県道21号河口湖精進線という。 始点は、河口湖大橋近くの富士河口湖町河口の国道137号線との交差点で、河口湖、西湖の北岸を経て、同じく富士河口…

山中湖

山中湖畔から富士山を眺める 富士箱根伊豆国立公園にある堰止湖で、富士五湖のひとつ。 国土地理院と山梨県のデータによれば、周囲13.87kmで、面積6.78km2は富士五湖の中で最大であり、最大水深13.3mは最も浅く、水面の標高は980.5mで最も高い。この水深の浅…

本栖湖

お札にも描かれているのとほぼ同じアングルの本栖湖と富士山 富士箱根伊豆国立公園にある堰止湖で、富士五湖のひとつ。 国土地理院と山梨県のデータによれば、周囲11.82km、面積4.7km2で、最大水深は121.6mと富士五湖の中では最も深く、透明度も12.7mと一番…

富士山

言わずと知れた日本一の山。玄武岩質の成層火山で、独立峰として穏やかな稜線を持つ姿が非常に美しい。 富士山の山頂火口の縁部は八神峰と呼ばれ、そのピークのひとつが剣ヶ峰と呼ばれ、3776mの最高標高である。ちなみに、火口縁部のピークは、正確には10前…

精進湖

精進湖畔から樹海と大室山越しに富士山を眺める 富士箱根伊豆国立公園にある堰止湖で、富士五湖のひとつ。ショウジコと読む。 国土地理院と山梨県のデータによれば、周囲6.8km、面積0.51km2、水深15.2mで、富士五湖の中では最も小さい湖である。また、水面標…

西湖

西湖の花畑と富士山 富士箱根伊豆国立公園にある堰止湖で、富士五湖のひとつ。サイコと読む。 国土地理院と山梨県のデータによれば、周囲9.85km、面積2.12km2、水深71.7mで、水面標高は本栖湖や精進湖と同じ900mである。これは3つの湖の成り立ちに関係してお…

河口湖

富士箱根伊豆国立公園にある堰止湖で、富士五湖のひとつ。 国土地理院と山梨県のデータによれば、周囲20.94km、面積5.7km2、最大水深14.6mで、周囲長は富士五湖の中で最も長く、水面の標高は830.5mと最も低い。また、現在は放水路があるが、江戸時代中期まで…

武田神社

躑躅ヶ崎館跡の石垣と武田神社の鳥居 戦国時代の甲斐武田氏の当主である信虎、信玄、勝頼の3代が本拠とした躑躅ヶ崎館跡に建立された神社で、祭神は武田信玄。 躑躅ヶ崎館は、甲斐武田氏の内訌を収めた武田信虎が、永正16年(1519)に石和から本拠地を移すため…

要害山城 (甲斐)

要害山の麓にある碑 要害城や、麓の積翠寺の名を取って積翠山城とも呼ばれる山城で、甲斐守護武田家の居館躑躅ヶ崎館の詰城。 躑躅ヶ崎館は、武田家の館として非常に有名だが、それより前の守護所は石和にあった。 叔父信恵を破って武田氏の惣領となり、甲斐…

谷村城

小学校の一角に建つ谷村城址碑 一般には、甲斐源氏武田氏の重臣小山田氏が居城とした城とされ、居館形式であったことから、谷村館とも呼ばれる。ただし、小山田氏時代の谷村城は別の場所にあるとし、この城は豊臣政権時代の築城とする説もあるようだ。 小山…

能見城

能見城は、ノウミではなくノウケンと読む。 能見城築城には3つの説があり、そのひとつが穴山氏築城説である。 穴山氏は、甲斐源氏武田氏の5代信武の五男義武が、能見城周辺の逸見郷穴山村を領して地名を称し、穴山氏の祖となったという。しかし、これには異…

躑躅ヶ崎館

戦国時代の武田氏が本拠とした居館。武田氏館ともいう。 武田氏は、清和源氏の本流河内源氏の流れである。永承6年(1051)から始まる前九年の役で活躍した源頼義の三男に新羅三郎義光がおり、その子義清が常陸国那珂郡武田郷を領して武田冠者と呼ばれたことに…

須沢城

須沢城は、武田信玄が治水のために流路を現在の川筋に変えたとの伝承が残る御勅使川の北側にある。この御勅使川は甲斐でも有数の暴れ川で、氾濫による流路の変更が幾度もあり、現流路を含めて5本の流路が確認されているという。また、暴れ川が運ぶ砂礫は扇状…

新府城

新府城本丸に祀られた武田勝頼の廟祠と家臣の霊柱 正式には、新府中韮崎城という。 甲斐を治めた武田信玄の死後、実質的に跡を継いだ子勝頼は、高名な父の名声を打ち消すように、天正2年(1574)に信玄が落とせなかった高天神城を攻略し、武名を轟かせた。しか…

下山城

河内地方を統治した穴山氏の居城。 この下山城の場所には、かつては下山氏の居館があったという。下山氏は、甲斐源氏である加賀美遠光の孫光重を祖とし、光重が建仁年間(1201-04)に下山に入部して地名を称したのに始まるといい、居館も入部時に築かれたもの…

小山城 (甲斐)

小山城の築城時期は不明であるが、宝徳2年(1450)には穴山伊豆守が居城していた。 この伊豆守は、上杉禅秀の乱に加担して討伐された甲斐守護武田信満の弟で有力庶家である穴山氏を継いでいた、満春の子といわれているが、信満の嫡子で従兄弟にあたる信重によ…

甲府城

武田信玄の居城として知られる躑躅ヶ崎館の南、甲府盆地北部の一条小山に築かれた城で、山の名から一条小山城とも呼ばれたほか、甲斐府中城、赤甲城、舞鶴城という別名がある。 城のある一条小山には、古くは武田氏の初代である武田信義の嫡男一条忠頼が居館…

勝山城 (郡内勝山城)

勝山城本丸に建立されている東照宮と僅かに見える本丸の碑 勝山城というのは各地にあるため、郡内勝山城や都留勝山城とも呼ばれる。 鎌倉時代始め頃からこの郡内地方を統治したのは、武蔵国を本貫とする平良文流の坂東八平氏秩父党の小山田氏であった。 小山…

岩殿山城

武田家臣小山田氏の詰城。岩殿城ともいう。 岩殿山の歴史は、平安時代の9世紀末頃に始まり、この巨大な岩山に天台宗の岩殿山円通寺が開かれ、やがて門前町を形成するほど栄えた。天台宗や真言宗は中国の山岳仏教の系譜を継いでいるため、古来の山岳信仰と習…