Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

岩殿山城

 武田家臣小山田氏の詰城。岩殿城ともいう。

 岩殿山の歴史は、平安時代の9世紀末頃に始まり、この巨大な岩山に天台宗岩殿山円通寺が開かれ、やがて門前町を形成するほど栄えた。天台宗真言宗は中国の山岳仏教の系譜を継いでいるため、古来の山岳信仰と習合して修験道となるのだが、岩殿山の険しさは、その修行に最適であり、鎌倉時代には、円通寺はその修行拠点となって更に栄えたという。

 岩殿山に城が築かれたのは戦国時代で、甲斐守護武田家中の内訌を収めた信虎に臣従し、その妹婿となった小山田越中守信有の時代である。

 小山田氏は、大月から富士吉田や山中湖付近までを支配した大名で、現在の都留市に本拠を持ち、大永7年(1527)に中津森館、その焼失後は天文元年(1532)から谷村城に居していた。岩殿山城はこの詰城として築かれたと考えられており、年代としては享禄年間(1528-32)から天文年間(1532-55)の初期頃と見られている。

展望台になっている岩殿山城南物見台の乃木大将の詩碑と背後の解説板

岩殿山城南物見台の端には麓から断崖になっている岩盤が僅かに見える

 ただ、谷村城の詰城は、その後背の勝山城であったという説があるほか、岩殿山城にも、大月周辺の関所が武田氏の支配下にあったことから、武田氏の持ち城だったという説があり、この辺りは両城に関連する新たな史料の発掘が待たれるところだろう。また、武田氏直轄説では、岩殿山城は武田氏の築城としている。

 小山田氏は、武田家中の親族衆として重きを成し、越中守信有から出羽守信有、弥三郎信有、信茂と3世代4代に渡って栄えたが、越中守や出羽守の頃は、武田氏が今川氏や北条氏と争っていた余波で郡内にも侵攻を許し、相応の被害があった。だが、城自体は戦場にはならなかったようだ。

 信虎の子晴信(信玄)の時代には、三国同盟によって郡内地方は安定したが、後に同盟が破棄されると、再び北条氏との領境となった。

 信玄の没後、信玄の四男勝頼が実質的に当主となり、信玄も落とせなかった高天神城を攻略するなどしたが、天正3年(1575)の長篠の合戦に敗れて以降は外交的失策も重なり、遂に同10年(1582)には木曾義昌の寝返りをきっかけに織田徳川連合軍の総攻撃を受けることとなる。

岩殿山城の本丸は電波施設が建っている

岩の間を門としている岩殿山城揚木戸

 この時、勝頼は、築城途中の本拠新府城を放棄することとし、真田昌幸が進言した岩櫃城ではなく、信茂が進言した岩殿山城を目指したが、笹子峠で信茂の裏切りに遭って岩殿山城に入ることができず、天目山で自害した。

 一般に、岩殿山城を目指したのは小山田氏の居城だったからとされるが、前述のように、岩殿山城を武田直轄と考えると、より堅固な岩殿山城に籠もるべく新府城を落ちたということになり、勝頼の最末期の印象がやや変わってくるが、実際はどうだったのだうか。ちなみに、岩殿山城岩櫃城は、久能山城と共に武田三名城に数えられる堅城である。

 勝頼の自刃後、信茂は織田氏に降ったが、勝頼を最後に裏切ったという不忠を咎められて自刃させられ、小山田氏も結局は滅んだ。この時、残された家臣や女子供がこの城に籠もったが、織田軍に追い立てられ、逃げる途中で足手まといになった子供を突き落とした場所が、稚児落としと呼ばれる場所であるという。

岩殿山城説明板

岩殿山城最大の削平地である馬場

 武田氏滅亡後、甲斐国織田家臣河尻秀隆の所領となったが、僅か3ヶ月後には本能寺の変が発生し、秀隆は蜂起した国衆によって討たれてしまい、甲斐では北条氏と徳川氏による天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が発生する。この乱での岩殿山城の事跡についてはよく分かっていないが、北条氏が谷村城を押さえたことから、恐らく乱の最初期は岩殿山城も北条氏が押さえていたのだろう。

 その後、北条氏と徳川氏との間で和議が結ばれ、甲斐国が徳川領になると、岩殿山城はその峻険さから平時の行政拠点には向かないため、万一の詰城としての機能だけが残されたと見られる。そして、天正18年(1590)の家康の関東移封後も、甲斐に秀吉と近しい武将が封じられたため、徳川氏との境目の城として維持されたようだ。だが、徳川幕府成立後は統治体制が安定し、17世紀初頭に廃城となった。

 城は、頂上の本丸から西に二ノ丸、三ノ丸と続く連郭式の山城だが、本丸と二ノ丸の規模は大きくなく、三ノ丸やそのやや下の馬場、南物見台にかけてが割と広く削平されている。

岩殿山城概略図

岩殿山の麓の丸山公園に復元された城門

 南物見台から下を覗けば、大月市街が真下に感じるほどの崖で、落ちれば軽く100mは滑落する、というより途中からスポンと空中に放り出されそうな感じだ。この景色だけで堅固さは一目瞭然だろう。

 特徴的なのは、主郭部入口の揚城戸で、読んで字の如く城戸が上がるようになっていたと思われ、まさに岩の門である。また、岩山ながら頂上付近に水の手があるのも特徴で、籠城に一番大事な水と強烈な絶壁は、籠もる将兵からすれば非常に心強かったはずだ。ちなみに、標高は634mで、東京スカイツリーと同じという案内が現地にあった。

 岩殿山は、下から見上げると名前の通り、どこから登れるのか不思議に感じるほどの完全なる岩山で、登山道は非常に険しい。麓に近い岩殿山ふれあいの館で貰った地図には、ふれあいの館がある丸山公園から頂上まで40分とあり、自分の足では30分を切るぐらいの行程だったが、そのほとんどはつづら折の急な階段や坂道が続く。

 この登山道はハイキングコースにもなっているようで、すれ違う人も多かったのだが、あまりの急峻さに道端で休んでいる人を幾人も見かけた。それだけ厳しい登山道であり、汗をかく季節ならドリンクの携帯は必須である。

 

最終訪問日:2012/10/13

 

 

今まで色んな山城に登ってきましたが、5本の指に入るほど登るのが厳しい山城でした。

延々と続く階段に、所々で息絶え絶えに休憩する人達。

現代人より当時の人は遥かに健脚ですが、実際に攻め上がる時も大変だったでしょうね。

堅城さを身をもって実感した城でした。