Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

内山城 (信濃)

傾いていた内山城本丸の城址

 永正年間(1504-21)に、大井玄岑が築城したいわれる山城。ただし、玄岑が築城したのは、内山城から尾根筋を伝った東にある内山古城ともいい、これが本当であれば、後に一帯を支配した武田氏による築城の可能性が高くなる。

 大井氏は、小笠原氏の庶流で、佐久郡大井荘を本貫として勢力を拡げ、一時は佐久郡の大半を支配するほどであったが、文明16年(1484)に村上氏によって宗家が滅ぼされ、惣領は長窪大井氏系統へと移った。つまり、この内山城は、長窪大井氏に惣領が移ってしばらく後に築かれたということになる。

 内山城を築城したとされる玄岑が、当時の大井氏内でどのような立場であったのか、どのような血筋であったのか、ということは不詳であるが、当時の大井氏の惣領や惣領に近しい武将の中には、玄慶や玄信という玄岑と似た法名が見えることから、比較的惣領に近い血筋の武将だったのだろう。

数段ある内山城本丸の突端から最高部方向

 築城当時の情勢としては、大井氏は、同じく小笠原庶流である伴野氏と激しく争っており、永正6年(1509)に将軍から調停の命が下されているほどで、佐久郡南部の伴野荘を本拠とする伴野氏への備えの意味が、築城にはあったと推測される。

 この両者の対立は、大永7年(1527)に大井氏が伴野氏を追い落とすことによって一旦は決着するのだが、伴野貞慶が甲斐の武田信虎を頼ったことで甲斐武田氏の介入を招き、当主の貞隆は介入による和睦を受け入れたものの、遺恨が残った。

 その影響があったのか、天文5年(1536)11月に信虎は佐久郡へ侵攻しており、同9年(1540)には信虎とその娘婿である諏訪頼重の、さらに翌年5月には信虎に同調した村上義清も加わっての攻撃を受け、佐久郡は郡外の勢力による草刈り場と化してしまう。

 だが、同年6月に信虎が嫡子晴信(信玄)によって追放されると、侵攻軍に滅ぼされた海野氏の要請で上野から関東管領上杉氏が出兵し、貞隆は上杉氏に臣従すると共に長窪城などを奪回している。この時、臣従した中に内山氏という豪族がおり、城を築城した玄岑の子孫だったのかもしれない。

内山城案内図

 こうして、貞隆が信虎の追放によって一息ついたのも束の間、晴信が諏訪を平定すると、天文12年(1543)には早くも小県郡や佐久郡が晴信の次の標的となり、同年9月17日には長窪城が包囲されてしまう。そして、家臣の離反もあって開城降伏し、大名としての大井氏は滅んだ。

 降伏した貞隆が甲斐へと連れ去られた後、貞隆の弟貞清は潜伏しつつ大井家の再興を模索し、上杉氏の支援を受けてこの内山城で兵を挙げた。そして、天文15年(1546)の晴信の再侵攻の際にも抵抗したのだが、衆寡敵せず、5月に落城して貞清は落ち延び、後に降伏して武田家臣となっている。

 ちなみに、貞清は降将ながら武田家臣としてはある程度信任されたようで、天文20年(1551)から半年の間は内山城代を務めるなどしたが、天正3年(1575)の長篠の合戦で討死した。

内山城の中腹にある石垣

 晴信は、新たに得た内山城を、信濃東部と西上野の攻略拠点として重視したとみられ、小山田虎満(上原昌辰)を城代として任じ、谷を挟んですぐ北の志賀城に在った笠原清繁と対峙させている。そして、天文16年(1547)閏7月には晴信自ら志賀城を囲み、これを救援しようとした上杉軍を翌月に小田井原で大いに破り、望みを絶たれて孤立した志賀城も陥落させた。

 その後、さらに信濃東部の平定を進める晴信が、天文17年(1548)2月に村上義清と対決するのだが、この上田原の合戦に敗北すると、4月には逆襲に転じた義清が内山城を攻めている。この時、昌辰は城を死守し、武田本軍の後詰もあって村上勢を撃退した。

 内山城は、天文19年(1550)に武田軍が再び義清に敗れて小県郡の攻略が遅滞したため、これ以降も変わらず重視され、前述のように貞清が一時は城代に復帰したが、半年後に再び虎満が城代となり、真田氏との取次や対村上氏の対策を命じられている。また、天文23年(1554)には、村上氏残党への対応として、飯富虎昌も在番した。

内山城段郭の切岸

 その後、虎満は内山城代と佐久郡代を務め、内山郡代については、没するまでその職に在ったといい、虎満没後は嫡子昌成(昌行)が継いだ。昌成は、父と共に西上野を守備するなどし、天正10年(1582)の織田・徳川連合軍の侵攻では、高遠城仁科盛信と共に壮絶に戦い、玉砕している。

 昌成の討死後、城は、昌成の子とも弟ともいう昌盛が継承し、織田氏に臣従したとみられるが、詳細はよく分らない。同年6月の本能寺の変後は、上野から北条氏の勢力が浸透し、最も上野に近い城のひとつであった内山城の昌盛も北条氏に従ったが、翌年の天正壬午の乱という北条氏と徳川氏の争奪戦の中で、内山城は徳川方の依田信蕃に攻略され、間もなく廃城になったという。

 城は、巨岩が多く転がる岩質の山に築かれ、富岡街道や下仁田街道と呼ばれる、滑津川沿いの内山峡を通って佐久郡と西上野を結ぶ街道を眼下に見下ろしており、信濃と上野の結節点となる城であった。

内山城の根小屋があったという円城寺付近から谷向こうの平賀城方向

 構造としては、志賀川と滑津川の間に細長く横たわる山塊から西にやや張り出した峰に築かれ、その峰から西と南に延びる峰筋に段郭を重ねる山城で、北東側の山塊とは大きな堀切で切り離している。本丸は、数段に分かれた細長い郭で、帯郭状の二ノ丸を挟んで北東側にやや大きい三ノ丸があり、そのほかでは、南の突端に馬場平という大きな削平地があった。

 城へは、中腹の円城寺という寺から遊歩道が出ているが、この円城寺付近には、根小屋となる屋敷があったようだ。この円城寺に駐車可能で、しばらく平坦な道を東に歩くと登山道の案内が出ており、そこから城へと行くことができる。主郭部からは、街道筋が明瞭に見渡せ、城の立地の良さを感じることができるだろう。

 

最終訪問日:2019/5/19

 

 

武田信玄が佐久郡で重要視した城で、どんな城かずっと行ってみたかった城です。

想像より規模は大きくなかったんですが、地図を見ると、この城単体で防御するというよりは、平賀城や内堀城などの周辺の諸城と連携して守るという感じだったんでしょうか。

少し奥まった場所にやや広がった平地があるというのが、駐屯地としてのポイントのような気がしますね。