Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

経山城

 古代城柵である鬼ノ城の東南側の峰に築かれた山城で、キョウヤマと読む。

 名前の由来は、付近一帯が平安時代山岳仏教霊場として栄え、多くの経塚があったことから、この山を経塚と呼んだ。それが、そのまま城の名となっている。

 経山城は、天文年間(1532-55)に大内義隆によって築城されたという。義隆は、天文11年(1542)から翌年にかけての月山富田城攻めに敗れてから、対外的には消極的となり、その政治的評価はともかくとして内向きになっていくのだが、本拠から遠い備中にまで軍事的な力を及ぼそうとしていたことや、周辺の情勢などを考えると、より具体的には月山富田城攻めの数年から5年ほど前に築城されたのではないだろうか。

 築城後すぐの城が、どのように使われたかはよく判っていないが、しばらくすると、中島氏が居城としたようだ。中島氏は、もとは美作国高野郷の地頭で、二階堂氏の流れであるといい、戦国時代になると、今の倉敷市である備中国浅口郡片島へ入部した。そして、政行の代に経山城へ拠点を移したが、平時は南麓の小寺に居館があったという。

 政行の子氏行は、前述の大内氏による月山富田城攻めに参加したが、その隙に経山城は浦上宗景に攻撃されている。この時、氏行の子輝行が留守を預かっていたが、なんとか浦上勢を撃退しており、輝行はその後も大内方、そして大内氏滅亡後は台頭した毛利方として、浦上氏やその家臣宇喜多直家相手に軍功を挙げた。

 その後、輝行は同じく毛利方として活動した三村家親の指揮に従ったようで、永禄9年(1566)に家親が暗殺された後は、引き続き子の元親の指揮下に入り、弔い合戦となった同10年(1567)の明禅寺合戦で討死している。ちなみに、この明禅寺合戦には、中島大炊介という人物も登場するのだが、これは戦場近くの中島城を本拠とする備前中島氏で、輝行自身は加賀守という別の官名を名乗っていた。ただ、これだけなら解り分かり易いのだが、輝行の子元行も後に大炊介を名乗っており、両者が混同される場合もあるようだ。

 明禅寺合戦の敗北後、備中勢の弱体化と、後援する毛利氏が大友氏と交戦中という情勢があり、備中は浦上家臣宇喜多直家や、これと結んで再興を志す尼子氏による侵入に晒され、経山城も元亀2年(1571)に尼子軍の攻撃を受けている。この時は、元行の母を始めとする婦女も武器を取って戦い、元行も夜襲を仕掛けて火を放ち、撃退したという。

 その後の元行は、天正2年(1574)から翌年にかけての備中兵乱では、元親から離反した元親の叔父三村親成を保護し、元親討伐戦でも案内役として功を挙げ、織田方に寝返った直家の備中侵入に対しては、高松城主で義父の清水宗治と共に戦った。同10年(1582)の高松城の水攻めでは、宗治の副将として二ノ丸を守ったが、講和の際には切腹を許されず、戦後処理にあたった後は和睦条件で宇喜多領となった経山城から退去し、小早川隆景に仕えたという。また、晩年には自分の見聞したことをまとめて、中国兵乱記を記している。

 和睦後、元行に代わって経山城に入ったのは、宇喜多家臣の延原家次で、備中南部を総括したというが、どの範囲を担当したかなどはよく分からない。また、経山城についても、延原家次の居城だったのか、属城のひとつだったのか、そしていつ廃城になったかなど、よく分からなかった。一説には、高松城開城の後、すぐに廃されたともいう。

 城は、古代城柵である鬼ノ城へ向かう途中にあり、城への道は分かりやすいのだが、鬼城山のビジターセンターの案内板で確認すると、車道から結構距離があるようだ。鬼ノ城に行ってから、時間があれば城に行こうと思ったのだが、鬼ノ城でかなり時間を取られてしまい、後の予定時間をずらせなかった為、散策は残念ながら断念した。今度は鬼ノ城ではなく、経山城を目的地にして訪れてみようと思う。

 

最終訪問日:2007/6/21

 

 

鬼ノ城へ行こうと砂川公園を抜けて鬼城山へ向かっていたところ、偶然、城への道標を発見しました。

あんな巨大な鬼ノ城がランドマークになるとは、なかなか豪快な城ですね。

自分は時間の関係で片方しか行けませんでしたが、とても近いので、鬼ノ城と一緒に散策がお勧めです。