織田家と毛利家の戦いで攻防があった、備中高松城を始めとする備前備中国境の境目七城のひとつ。
築城者には、河津左衛門氏明と、守福寺の某とする2説がある。
河津氏明は、室町幕府草創の功臣である足利家執事高師直の配下であり、観応元年(1350)に足利直冬討伐の為に師直が山陽道へ遠征していることから、河津氏明築城説に従えばこの辺りが築城年になるだろうか。
もう一方の説である守福寺は、城跡からすぐ北にあった寺院で、現在は無主となっているが、宝殿が重要文化財に指定されているなど、由緒正しき寺院である。中世には、大きな寺領を持っていたといい、この寺に関係する人物が領主化して城を築いたとしても不思議は無い。だが、どちらの説にしても資料的な裏付けは無く、伝承の域を出ない話である。
冠山城が歴史に登場してくるのは戦国時代末期で、室町時代から戦国時代の城の事跡はよく判っていない。想像できるのは、備中守護細川氏の配下で守護代を務めた石川氏の本拠から近い為、その本拠幸山城の支城として機能した可能性があるかもしれないという程度である。或いは、伝承が示すように、室町時代から戦国時代初頭辺りまでは、守福寺の別坊のような形の寺院城郭があったのかもしれない。
前述したように、織田家と毛利家の争いの中で、城が境目七城のひとつとして登場するのは天正10年(1582)である。これら境目七城を調略や力攻めで落とし難いと感じた秀吉は、播磨や因幡で見せた秀吉の戦い方そのままに各支城を攻略して連携を潰すという作戦に出た。これに伴い、冠山城は同年4月17日に織田勢2万と宇喜多勢1万という大軍に囲まれ、城主林重真を中心とする城方3千6百人は果敢に応戦したが、同25日に城内より出火して乱戦となり、重真を始め主だった将は自刃や討死を遂げて落城したという。
だが、全滅というわけではなく、重真の子宗重などは境目七城で最も堅かった高松城へと退却したようだ。ちなみに、現地説明板には籠城した部将の名前が載っているが、備中早島城主の竹井将監を始め、石川家の重臣だった禰屋氏、かつて備中の雄だった三村氏、備中守護代の庄氏、備前西部の豪族松田氏といった名が見え、周辺豪族の一門衆などを総動員した総力戦の様子がありありと窺える。
冠山城落城後、秀吉は境目七城で最も堅かった備中高松城攻略に取り掛かり、水攻めを仕掛けた。だが、その仕上げの段階で本能寺の変が起こり、急遽毛利方と和睦して中央へと軍を返すこととなる。この時に結んだ和睦の条件には、周辺一帯を明け渡すということが含まれており、戦後、冠山周辺も宇喜多氏の領地となっているのだが、冠山城には誰が入城したのかよく分からない。主戦場となった高松城には花房正成が入ったといわれているが、秀吉は平定した地の小規模な城は城割を命じて廃しており、高松城からほど近い冠山城も廃城となったのではないだろうか。
城は、比高15m程の冠山に築かれ、階段状に本丸、二ノ丸、三ノ丸と構えたシンプルで中世的な構造をしており、各郭は小規模で、全体の大きさも小さく砦のような感じだ。しかし、この城に3千6百人も籠っていたというのは驚きで、恐らく末端の将兵などは城に入り切れず、城外に臨時の土塁や柵を構築して籠ったのだろう。
総社から国道429号線を北上していくと、切り通し状の地形を抜け、右側に見えてくる小山が冠山である。城へは冠山南東側の集落から道が出ており、民家の横を抜けて城へと入って行く。本丸には冠山城攻防戦での戦死者の慰霊碑と、合戦の様子を記した説明板が建ち、やや下がって本丸に張り付くように二ノ丸があり、更に下がって三ノ丸があるのだが、木々が鬱蒼と茂り、曇天というのもあって城跡は非常に暗かった。また、二ノ丸や三ノ丸は藪化している部分も大きく、分け入ることも困難だったので、散策できる範囲もあまり広くはない。
標高が低く、集落も近いことから、廃城後も冠山は里山として人々に活用されて続けて来たのだろう。訪れた時も、三ノ丸と大手門の表示があるすぐ近くに脚立が立てられていたりと、非常に生活に密着した山というのが感じられ、人里近いせいか、秋というのに非常に蚊が多かった。この日は、上記のように藪化して散策しにくい状態だったが、里山として使われているだけに、時期によっては藪も刈られて入り易くなっているのではないだろうかと思う。印象としては、人に活用されながら時を経つつも、遺構が破壊されずにうまく朽ちていったという感じの城だった。
最終訪問日:2011/10/22
訪れたのが秋の16時頃だっんですが、目でもかなり薄暗いなと思うほどでしたので、写真では日没後の暗さみたいになっていますね。
しかし、こんな小城に3千6百人も籠っていたというのが驚きです。