Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

串木野城

 亀ヶ城とも呼ばれる。平地部分まで拡張されていない山城の形式ではあるが、山城と呼ぶには比高がかなり低く、いわゆる丘城に相当する城だろう。

 鎌倉時代串木野には、島津荘を開発した薩摩平氏の流れである串木野氏がいた。その祖は、薩摩平氏の中でも有力な一族であった河辺一族の出で、河辺一族の祖伊作良道の孫にあたる薩摩忠直の三男忠道である。この忠道が、串木野城を築いて初代城主になったという。

 南北朝時代の当主であった5代目の忠秋は、南朝に属して北朝方の島津貞久と争い、串木野城を興国3年(1342)に失陥し、南朝方であった同じ薩摩平氏系の同族知覧氏のもとに逃れた。これ以降、串木野城は、南北朝双方の争奪の地となっているが、正平10年(1355)の攻城戦で知覧忠世が討死するなど南朝勢力は衰退し、以後は島津氏が支配することとなる。

 その後、南北朝時代から室町時代中期に掛けての城の事跡は不明となるのだが、文明6年(1474)には、貞久の子頼久が興した川上氏の庶流忠塞が城主に就き、この川上氏の支配が3代に渡って続いた。

串木野城のある丘陵を南から眺める

 戦国時代中期に入ると、島津本宗家で内訌や幼主が続いたことなどにより、次第に島津庶流や国人が力を蓄え、島津本宗家の統制が次第に届かなくなる。このような情勢を背景として、当主であった島津勝久から家督を継承すべく、勝久の室の兄にあたる薩州島津家の実久と、子の貴久を勝久の養嗣子とした伊作島津家の忠良による、本宗家の家督を巡る争いが勃発した。

 忠塞の孫忠克は、娘が実久の継室であったことから、当初は実久側に立っており、忠良・貴久父子が鹿児島から実久方によって追われた直後には、勝久を鹿児島へ復帰させるべく使者を務めるなどしている。このため、忠良・貴久父子が勢力を盛り返すと串木野城を攻められ、天文8年(1539)に子を人質に出して城を退去し、一旦は甑島流罪となった。しかし、3年後に呼び戻されて貴久に仕えると、その嫡子義久の時代には家老を務め、子の久朗は看経所の四名臣に数えられるなど、近世島津家の発展を支える家となっている。

地頭仮屋が置かれた串木野城外郭の高低差

 川上氏退去後の串木野は、しばらくは誰が領主であったか不明であるが、弘治年間(1555-58)頃に市来地頭を兼ねて山田有徳が任じられ、次いで子の有信が継承した。元亀元年(1570)には、貴久の末子家久が隈之城地頭を兼ねて置かれ、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で叔父島津義弘の身代わりとなった家久の子豊久も、ここで誕生したという。

 家久は、任命の10年後に伊東氏から奪った日向国佐土原の城主となって移り、その後も宮原景晴を始めとして約30名の地頭が江戸時代末期まで任命され、江戸時代には外城のひとつとして地頭仮屋が置かれた。串木野城自体の廃城時期は明確ではないが、他の外城にあった城と同じく、江戸時代初期か元和元年(1615)の一国一城令の頃に廃城となったのだろう。

 城は、五反川を北から東に巡らせ、その五反川に向かってやや張り出した丘陵地に築かれている。城内には6つの郭を持ち、3つの展望台が構えられていたといい、南九州特有のシラス台地と自然浸食された崖を利用した群郭式の城郭だったと思われ、これら城郭本体の郭群以外にも、五反田川南岸に3つの出城があった。また、廃城後は外郭部分が地頭仮屋として使われたという。

串木野城と地頭仮屋の説明板

 現在の城地の中核部は、住宅地の中に取り残されたように存在しており、南東側の三叉路に、城と地頭仮屋に関する説明板が建てられている。訪れた当時は、これが城を示す唯一の目印と言える程度で、地頭仮屋跡である石垣上の住宅地区を散策してみたものの、痕跡の類は見つけられなかった。説明板や外郭以外では、城跡北東側にある南方神社と城の間の道が堀切跡という。

 訪れた時は、この神社の丘陵の間の辺りから、丘陵部へと入ることができそうな基壇を確認することができたものの、そこから先は竹が繁茂した酷い藪で、立ち入ることはできなかった。調べて見ると、後に地元の有志の方によって遊歩道が整備されたようで、今は楽に散策できるようだ。

 これ以外では、地図を見てみると、出城である浜ヶ城の名が地名として残っている。主郭と出城の距離感から、城の全体的な規模などを推測することが可能であるほか、今の沿岸部が河口の湿地帯であった可能性も高く、当時の海岸線付近まで出城の連絡網を持っていた、地形をうまく活用した城だったのだろう。

 

最終訪問日:2018/10/15

 

 

2001年に訪れた時は、串木野駅周辺でお城の情報が得られずに撤退し、今回は2度目の訪問となりましたが、これはちょっと入るのは無理じゃないか?というような竹藪で、後ろ髪を引かれながら、散策は断念しました。

調べてみると、遊歩道が整備されているとは、地元の方々に大いに感謝ですね。

いつか3度目の正直を果たしたいお城です。