駿河の豪族鮫島氏が、薩摩に下向して築いた城。城主の名から鮫島城とも呼ぶ。
鮫島氏は、佐女島とも書き、藤原南家流工藤氏の流れを汲むとされるが、一説に桓武平氏流ともいう。本貫は駿河国富士郡鮫島で、治承4年(1180)の頼朝の挙兵に鮫島宗家が従っていることが見える。
宗家は、相模や伊豆の豪族が中心であった初期の頼朝陣営の中では、唯一と思われる駿河勢であったが、甲斐源氏一条忠頼誅殺で不手際があったため、挙兵から従った他の豪族とは違い、中央で栄達はできなかったようだ。
その後、建久3年(1192)に阿多郡の地頭として見えており、それまで領主であった薩摩平氏流の阿多宣澄が平家に味方して没落したため、宣澄と入れ替わるような形で領主となった。この時に、貝殻崎城も築かれたという。
ただ、宗家の嫡子で阿多郡の北方を相続した家高が、濫妨を訴えられて宝治元年(1247)に阿多郡北方地頭職を解任されてしまったため、これ以降は、庶子宗景の相続した阿多郡南方のみが影響を及ぼせる範囲となったようだ。

同年は、鎌倉幕府草創の功臣で北条氏に比肩する勢力を持っていた三浦氏が、宝治合戦で没落した年であり、解任は合戦の4ヶ月後の10月の出来事であることや、訴えられた内容に比べて処分が重いことから、何らかの関連があったのかもしれない。
阿多郡は、当時から海外交易が盛んだったようで、鮫島氏にもその恩恵があったのか、南北朝時代まで独立した豪族として存続している。そして、南北朝時代の建武4年(1337)には、鮫島家藤が他の南朝方諸将と共に挙兵したことが見え、北朝方の島津氏と対立した。この対立の中、貝殻崎城でも合戦があったと現地の碑には刻まれているが、いつ、どのような戦いがあったか、詳細は不明である。
その後、史料上では、応安7年(1374)6月の「島津伊久代重申状」に、鮫島掃部助跡阿多郡半分百五十町とあり、この頃には島津氏が阿多郡南方を支配下に収めていたようだ。また、この時点での鮫島氏がどうなっていたかは不明である。
現地の碑によると、南北朝合一後も長年の敵であった島津氏とは相容れず、鮫島氏は反守護として活動し続けたが、応永27年(1420)に伊作島津氏に臣従したという。当時は、島津家中で奥州家と総州家の家督争いの最末期にあたるのだが、もしかすると、鮫島氏は敗者側の相州家に加担していたのかもしれない。

これ以降の鮫島氏と貝殻崎城の事跡は不明で、戦国時代に加世田小松原の鮫島宗政や、頴娃家臣の鮫島宗勝といった名が見える程度となる。幕末から明治初期にかけての軍人や外交官にも、旧薩摩藩士の鮫島姓の人物が登場することから、戦国、江戸時代を通じて、島津家臣として幾流かが血脈を伝えたのだろう。
城は、国道270号線が岸元川を越える手前にあり、現地を走ってみるとよく判るが、周囲からは微高地となっている。南東側から岸元川やその合流先の境川へと張り出した半島状の丘陵の突端に城が築かれていたと見られるが、標高や周囲の川の大きさを考えると、それほど防御力は期待できなかったのではないだろうか。恐らく、居館から出発し、本格的な構造物を備える城郭へと発展しないまま廃城になったと思われる。
国道を走っている最中に発見した城で、バイクを降りて周囲を散策してみたが、城らしい遺構は見当たらず、城がどの程度の規模だったかもよく判らなかった。近くに貝塚があることから、貝殻がよく出土する突端という地名の意味だけが明瞭な城ではあるが、築城の遥か昔から人が住んでいた証でもあり、人の営みの上では重要な場所だったのだろう。
城を散策した際、城の大きさの割に城址碑が立派だったことと、碑の署名に小泉純一郎元首相の名があったのには驚いた。調べてみると、純一郎の父純也が加世田出身で、尚且つ鮫島を旧姓としており、鮫島氏の直系子孫ということらしい。
最終訪問日:2018/10/15
加世田別府城を見た後、北に向かって走っている時に発見し、Uターンして訪れました。
遺構については、見た限り何もない城でしたが、碑だけが相当に立派で、そういう意味ではとても印象に残るお城でしたね。