Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-平山城

小山城 (遠江)

小山城がいつ頃に築かれたのかは定かではないが、伝承によると、文治年間(1185-90)に小山朝光こと結城朝光によって砦が築かれたのが最初という。 ただ、文治年間というと、源平の争乱終結後であり、その末期が奥州藤原氏との戦いがあった程度で、時代背景か…

興国寺城

北条早雲こと、伊勢盛時が本拠とした城。 興国寺城の築城時期は不明だが、早雲が今川家の家督争いを収めた功で興国寺城に入城した長享元年(1487)かその翌年までには築城されていたとされるほか、早雲自身が入部の際に築いたという説もある。ただ、早雲の興国…

掛川城

掛川城復興天守と太鼓櫓の遠景 文明年間(1469-87)頃に、駿河守護今川義忠が家臣の朝比奈泰煕に命じて築かせたというのが掛川城の初見であるが、この時に築かれたのは北東数100mにある掛川古城であった。掛川古城を築いた泰煕は、そのまま城主となり、子泰能…

新府城

新府城本丸に祀られた武田勝頼の廟祠と家臣の霊柱 正式には、新府中韮崎城という。 甲斐を治めた武田信玄の死後、実質的に跡を継いだ子勝頼は、高名な父の名声を打ち消すように、天正2年(1574)に信玄が落とせなかった高天神城を攻略し、武名を轟かせた。しか…

小山城 (甲斐)

小山城の築城時期は不明であるが、宝徳2年(1450)には穴山伊豆守が居城していた。 この伊豆守は、上杉禅秀の乱に加担して討伐された甲斐守護武田信満の弟で有力庶家である穴山氏を継いでいた、満春の子といわれているが、信満の嫡子で従兄弟にあたる信重によ…

甲府城

武田信玄の居城として知られる躑躅ヶ崎館の南、甲府盆地北部の一条小山に築かれた城で、山の名から一条小山城とも呼ばれたほか、甲斐府中城、赤甲城、舞鶴城という別名がある。 城のある一条小山には、古くは武田氏の初代である武田信義の嫡男一条忠頼が居館…

福与城

福与城解説板 藤沢氏が居城とした城。 福与城主だった藤沢氏の出自には、2つの説がある。ひとつは諏訪神氏流とする説で、諏訪大社上社大祝の諏訪氏の庶流千野光親の子親貞が、高遠北方の藤沢を領して地名を称したことに始まるという。親貞の子清親は、鎌倉幕…

北熊井城

築城時期は不明だが、信濃守護小笠原氏の本拠であった松本平の南東端を抑える城として、一説にはその家臣村井氏が築いたと推測されている。また、別の説として、永正年間(1504-21)に熊井氏が築城したとも、嘉吉2年(1442)に大和織部正が築いたともいう。 村井…

大井城

一時は佐久郡の大半を支配した、岩村田大井氏の居城。岩村田館とも呼ぶ。 大井氏は、小笠原氏の庶流で、佐久郡大井荘を本貫として勢力を拡げた豪族だが、大井荘の開発領主ではなく、承久3年(1221)の承久の乱の功で新たに入部した新補地頭である。その入部の…

海尻城

佐久郡南部の豪族である伴野氏の家臣、井出長門守が築いたと伝わるが、築城時期は不明である。もともとは、南の甲信国境に対する監視連絡拠点として築かれたのだろう。 伴野氏は、戦国時代には、同じ小笠原氏の庶流であった大井氏と、佐久郡の支配権を争って…

上ノ平城

上ノ平城は、平安時代末期に伊那馬大夫と称した、源為公によって築城されたと伝わる。 為公は、清和源氏の主流である源経基の流れで、経基の五男満快を祖とする家に生まれ、この家は、主に東国の官職を歴任していた。為公の父為満は、同じ経基流の中でも最も…

村上城

今は村上城と呼ばれ、所在地も村上市となっているが、元は豪族本庄氏の居城で、本庄城や本荘城と書いた。そのころは中世的な山城だったと推定され、鎌倉時代の築城という伝承もあるが、本格的に構築されたのは戦国時代初期とされ、本庄時長か、その子房長に…

東城砦 (監物城)

春日山城の東北方向にあった出城。地図には監物城とあった。 春日山城下の惣構を成す監物掘の東北端に位置し、城下から大手方向を監視するための出城である。規模は小さいが、春日山城の麓一帯においては重要な城砦として整備され、北側の池と共に防御力を高…

阿尾城

阿尾城解説板 氷見市の北端、その名も城ヶ崎という海に突き出した岩質の丘陵に築かれた城。 明確な築城時期は不明だが、遺物から15世紀後半頃には城として機能していたようだ。氷見の北部一帯では、当時は吉滝氏や八代氏が勢力を持っており、そのいずれかの…

津幡城

津幡城最高部の物見にある城址碑 津幡町の東部には、源平の合戦の一局面として、源義仲と平惟盛が寿永2年(1183)に戦った倶利伽羅峠があるが、惟盛軍が砦を構築して布陣した場所が津幡城とされ、それが城としての最初という。ちなみに、倶利伽羅峠で大勝した…

大聖寺城

大聖寺城縄張図 大聖寺城の築城時期や築城者ははっきりしていないが、もともとは大聖寺という白山五院に数えられた寺があり、その寺坊跡を城郭に流用したと考えられる。 具体的には、在地豪族であった狩野氏が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて築いたといわ…

小丸山城

能登を与えられた前田利家が、府中と離れた山上にあって経済的発展の望めない七尾城から府中へ本拠を移すため、天正9年(1581)に築城した。 利家は、織田家の北陸方面軍の軍団長であった柴田勝家に寄騎として従っていたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長…

金沢城

言わずと知れた加賀藩100万石の領主前田氏の居城。 金沢城の前身は、尾山御坊や金沢御堂と呼ばれる寺院城郭で、この創建は天文15年(1546)とされる。戦国時代の加賀は、長享2年(1488)に守護富樫氏を倒した一向衆や地侍層が支配しており、百姓の持ちたる国と呼…

八幡城 (郡上八幡城)

地名を冠して郡上八幡城とも呼ばれ、永禄4年(1561)に東氏を追った遠藤盛数によって、陣城を構えていた峻険な八幡山に築城された。 中世の郡上郡では、承久3年(1221)の承久の乱の功などで所領を得た千葉氏流の東氏が下向して以来、着々と勢力を扶養しており、…

高山城 (飛騨高山城)

高山城は、金森長近が築いたとされる話が有名だが、前身は、室町時代に築かれた天神山城である。具体的には、文安年間(1444-49)に飛騨守護であった京極氏の家臣で飛騨守護代を務めた多賀徳言が築き、永正年間(1504-21)には多賀氏の庶流とされる高山外記が再…

桜洞城

農地の脇にある桜洞城址碑 飛騨南部を掌握していた三木氏の居城。 三木氏はミツキと読み、そもそもは佐々木京極氏、あるいはその守護代である多賀氏の被官である。血統としては、宇多源氏佐々木氏流多賀氏の庶流ともいわれるが、多賀氏自体は、多賀大社を氏…

鷺山城

最高部の本丸跡の城址碑 伝承では、平安時代から鎌倉時代へと移り変わる文治3年(1187)に、佐竹常陸介秀義が築城したと伝わる城。 だが、その後は城の記録が途絶え、室町時代には美濃国守護職にあった土岐氏の所有となり、土岐一族が城主となっていたというが…

東端城

東端城説明碑 ヒガシバタと読み、現地説明碑には、天正8年(1580)に長田尚勝によって築かれた城とあるが、安城市では、松平信忠が大浜称名寺に禁制を与えた文亀3年(1503)と同じ頃に整備されたとしている。 城は、信忠の居した安祥城と大浜の間にあるため、そ…

羽豆崎城

羽豆岬にある城。読みは、師崎がモロザキと濁るため、同様にハズザキと濁って読むのだろう。また、羽豆城や幡豆崎城とも書く。 羽豆崎城は、熱田神宮大宮司家の千秋氏によって南北朝時代に築かれた。地形を見ても解るように、陸地の繋がりよりも水運の要とな…

西尾城

西尾城二ノ丸にある復元天守台から二ノ丸と本丸丑寅櫓 西尾城の前身は、足利氏の一門である吉良氏が本拠とした西条城である。 足利氏というのは、庶長子という存在が鍵になる家なのだが、吉良氏もそのようにして分かれた家であった。足利氏初代義康の跡は、…

東条城

櫓門として復元された東条城本丸大手門 東条吉良氏の居城であった平山城。 東条吉良氏は足利一門であるが、足利氏というのは、長子相続が家中であまり重要視されていなかったのか、嫡子ではない長子という存在が割に多く出てくる家で、吉良氏もそのようにし…

田原城

戸田氏によって築かれた城。 三河戸田氏は、寛政重修諸家譜には藤原北家流正親町三条氏の出とあり、公治の子実興が下向し、その子宗光の時に戸田を称したというが、清和源氏の出自とする説もある。清和源氏説では、源義家の曾孫で美濃森氏の祖となる森頼定の…

末森城 (尾張)

末森城城址碑 末森城は、覚王山日泰寺の東南側の城山に築かれていた。東山丘陵の末端部にある城山には、城山古墳群があり、周辺一帯は、古くから勢力が培われた場所であったようだが、城を築城したのは地生えの勢力ではなく、信長の父織田信秀である。 織田…

上ノ郷城

上ノ郷城本丸南側の次郭の土塁上にある城址碑 鵜殿氏の居城。三河物語では西之郡之城とあり、城主の名から鵜殿城とも呼ぶ。 鵜殿氏は、源平の頃の熊野別当湛増の裔と称し、その祖は中古三十六歌仙のひとりで光源氏のモデルのひとりとの説もある藤原実方に連…

形原城 (稲生城)

形原城址碑 三方を海に面した海城の平山城で、稲生城ともいう。 形原城には、築城に関しての伝説があり、方原師光として知られる源師光が、一帯の荘園の下司となった際、久安5年(1149)に居館を造り、それが形原城の前身になったとされる。師光は、新羅三郎義…