伊予の名族、河野氏の累代の居城。
河野氏は、古代氏族越智氏の流れといわれる。越智氏は、孝霊天皇の末裔という説や饒速日命を祖とする物部氏の分かれという説があるが、孝霊天皇は第7代という天皇家草創の頃の人物で、饒速日命も日本書紀や古事記に載っている人物であり、もはや出自は伝説に近い。
どうやら、瀬戸内や伊予に勢力を持っていた国造家の流れが越智氏であるようで、河野氏も、玉澄の時に、西に海が開けた伊予国風早郡河野郷に住み、河野を称したのが始まりという。
河野氏が歴史上に登場するのは、天慶4年(941)に制圧された藤原純友の乱の時で、河野好方という人物が見える。純友を捕えたのが、越智氏の流れとされる伊予橘氏の橘遠保であることから、河野氏は、この頃には開拓領主として武士化し、越智氏庶流として伊予水軍に参加したのだろう。
その後、治承5年(1181)に、当主通清が反平氏の兵を挙げて河野郷の高縄山城で敗死したことが見え、その子通信は、義経軍に投じて功を挙げ、鎌倉時代には伊予に大きな勢力を得た。しかし、承久3年(1221)の承久の乱の際、一族のほとんどが朝廷側に味方したことで没落してしまう。こうして、北条氏から室を迎えていた通久だけが、幕府方として存続した。

ちなみに、通信の子通広の、さらにその子にあたるのが、時宗を開いた一遍である。一遍は、承久の乱の後の生まれで、異説はあるものの、出生地は湯築城近くの宝厳寺が定説とされており、前述の通清の頃に河野郷が本拠地であったのは明白だが、湯築城一帯も、築城以前から河野氏にとってゆかりのある土地だったのだろう。
通久の後、孫の通有・通忠父子は、元寇で奮戦した功によって旧領を回復し、南北朝時代には、通有の七男通盛が北朝方として、南朝方に与した庶流らと戦って勢力を拡げ、伊予守護となった。湯築城は、この南北朝期の初頭の建武2年(1335)頃に通盛によって築かれたのだが、早くも康永元年(1342)には忽那氏の攻撃で落城しており、通盛が奪回したという。
その後の河野氏は、四国を絶対的な基盤としたい細川氏と、守護職を巡って度々争い、通盛の子通朝が討死し、その子通堯も正平19年(1364)に湯築城を奪われてしまう。通尭は、翌年正月には、湯築城を攻撃して細川天竺禅門を討ち取っているが、4月には伊予から追われて九州に落ちた後、南朝方として同23年(1368)に伊予へ侵攻し、湯築城を回復した。後に細川氏とは和睦をするのだが、この因縁が尾を引き、応仁元年(1467)からの応仁の乱の際には、宗家の教通が細川氏を嫌って山名宗全の味方となる一方、惣領を狙う予州家の通春は細川勝元に与し、相争っている。
応仁の乱後も、このような内訌や家臣の叛乱などがあり、河野氏は勢力を拡大することができず、守護大名から、さらに強力な支配力を持つ戦国大名への脱皮は叶わなかった。

この内訌の代表的なものが来島騒動で、天文年間(1532-55)頃の当主である弾正少弼通直には実子が無く、娘婿の来島村上氏の通康を養嗣子として迎えようとしたが、予州家の通存や家臣がこれに反対し、通直は湯築城を攻撃されて退去している。
最終的には、通存の子通政が家督を継いだのだが、通政は通直の実子という説もあり、もしそうならば、通政という実子がいるにもかかわらず、わざわざ通康を養子を迎えなければならなかった状況ということになるだろうか。つまり、宗家と庶家の対立だけではなく、父子対立があったということになり、河野家内はかなり複雑な状況に陥っていたと言えるだろう。
戦国時代後期の伊予は、中国の毛利氏や九州の大友氏、土佐の一条氏とそれを滅ぼした長宗我部氏が侵入や介入を図るが、河野氏は毛利氏と結び、大野直之の叛乱や宇都宮氏討伐などに対処していた。ただ、家督は、前述の通政が早世し、その後は弟の左京大夫通宣、一族通吉の子伊予守通直と続いたため、強力なリーダーシップを持った人物が長い期間に渡って政治を見るということがなく、どうしても場当たり的な政策を採る原因にもなったようだ。
やがて、天正9年(1581)には、東予の金子元宅が長宗我部元親に臣従し、いよいよ元親による中伊予制圧が開始されると、これに対し、道直も毛利氏と結んで抗していたが、同13年(1585)に元親に降伏した。その直後、今度は秀吉の四国征伐が始まり、河野氏は湯築城を囲まれて籠城しているが、積極的な交戦意欲は無く、小早川隆景に説得されて開城している。

戦後、湯築城には、伊予一国を与えられた隆景が一旦入城し、通直は、隆景の下で隠居状態となったが、河野家再興の意欲は持っていたという。しかし、2年後の九州征伐後に隆景が筑前へ移されたことで、河野家再興の夢は潰え、隆景の本拠がある備後竹原に退き、間もなく没した。一説に、秀吉政権が伊予国人の処断を命じ、謀殺されたともいう。
九州征伐後、前述のように隆景が筑前へ移され、代わった福島正則が湯築城に入城したが、今治の国分山城を本拠としたため、湯築城は廃城となった。
廃城後、江戸時代の松山城築城の際に資材が持ち出され、以降は荒廃していたというが、下手に人手が入らなかったことが幸いし、二重の堀と土塁が見事に残っている。維新後は、植物園や遊園地、動物園として整備されていたが、動物園が閉園した後、城跡の発掘調査が始まり、武家屋敷や大量の遺物が発掘された。現在は、これを利用する形で史跡公園として再整備されており、湯築城資料館が建ち、武家屋敷も復元されている。
この武家屋敷一帯は、戦国時代に拡張された部分で、それ以前は中心の山だけが城郭化されていた。つまり、山城から平山城への変遷があったわけで、城の役割が軍事機能だけに留まらなくなったことを示している。
中心の山の部分は、城の中核で、本壇と呼ばれる頂上の本丸は広くなく、それに続く中段の部分が広い。この中段の部分には河野氏の居館があったというが、発掘調査では居館らしい建物の痕跡は見つからなかった。
全体的には、集権的な戦国大名に脱皮できなかっただけに、河野氏という名のイメージほどは規模の大きくない城だが、土塁と二重の堀は土地の城が多い東国の近世の城に劣らず、非常に見応えがあった。
最終訪問日:2004/9/11
道後温泉に近いので、観光客も多い城跡でした。
さすがに、山上の本丸まで登る人はあまりいませんでしたが、ほかの城跡と違って少し華やかさがありましたね。
発掘調査や展示がしっかりしているので、どっぷりとお城に浸ることができる空間となっています。