藤原純友の弟遠純の子孫である和田八郎親純が、島津氏の薩摩守護職就任以前の建久年間(1190-99)に居城としていた城。
親純は、伊作荘を始めとする周辺一帯に力を持っていた、薩摩平氏の伊作平次郎良道の女婿という。薩摩平氏は、平姓を賜って桓武平氏高望流の祖となった平高望の子である良持(良将)の流れ、もしくは良持の弟良文の流れといい、良持の子とも良文の孫忠通のさらに孫ともいう平貞時が祖で、島津氏入部以前に、薩摩から大隅にかけて勢力を扶養していた一族である。
「薩隅日地理纂考」によれば、藤原氏の流れを汲む人物が和田の地にやってきて城を築き、周囲を開墾したとあることから、親純が伊作良道から伊作荘を譲り受けたという伝承を正しいとするならば、入部して来た親純が田中城の築城も行ったと考えるのが自然だろうか。

親純は、このように婚姻によって良道から伊作荘を譲り受け、本拠としていたのだが、鎌倉幕府成立後、親純の子孫は、守護となった島津氏の勢力伸張によって次第に衰えて行ったようだ。
伊作荘は、鎌倉時代早期に島津荘の一部を成す一円不輸の荘園として近衛家に寄進し直された後、興福寺一乗院に寄進され、親純の一族や子孫は、荘園を管理する荘官として領地を支配していたと見られるが、一方で弘安4年(1281)には、島津久長が地頭に補されたことが見える。
この久長は、後に伊作荘へ入部して伊作島津家の祖となるのだが、実質的な統治権を巡り、荘官と地頭の間でかなりの対立があったのは想像に難くない。実際、両者の間で幾度も相論が行われており、和田氏はそのような対立の過程で、次第に島津氏に押されて行ったと見られる。

ただ、親純と同様に良道の娘婿となった者の子孫である益山氏などは、郡司などの役職に就いて南北朝時代頃までは栄えていたといい、僅かな差で命運が分かれたようだ。とは言え、薩摩平氏系諸族は、南北朝時代に南朝に属した家が多かったようで、島津氏の軍門に下ったり、同名の島津一族に取って代わられたりして行き、戦国時代には、薩摩平氏系を出自とするの独立的な豪族は、ほとんど見えなくなるのである。
このような薩摩平氏諸氏衰退の流れの中、田中城もやがて和田氏の手を離れ、島津氏が領有したのだろう。廃城時期は不明だが、遺構の堀の規模などを見ると、意外と遅い時代まで使われていたのかもしれない。
城は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての、まだ防御施設が充実する前の平山城あるいは丘城で、詰というには標高が低い一方で本丸が広いことから、居館的な性格が強かった城のようだ。

城の構造としては、堀代わりに使われたであろう、その名も堀川へと張り出した丘陵の突端にやや楕円の本丸があり、続く丘陵鞍部に削平地が1ヶ所と、さらに続く盛り上がった部分に削平地が1ヶ所、そして麓へと下る部分にもう1ヶ所削平地があるが、本丸以外は当時のものか、後世に里山として造られたものかは、判断できなかった。ただ、本丸の直下には、かなりの長さで空堀が穿たれており、前述のように、時代がある程度下った頃まで城としては使われていたのではないだろうか。
田中城に登ってみると、本丸跡には城址碑が建ち、視界が広く、眼下の和田の集落の田園が見渡せ、なかなか心地よい城である。この城を築いたと思われる親純も、この堀川沿いの開拓地を見ながら、領主として色々な事を考えていたのだろうか。そんな遥か昔に思いを馳せたくなるような、城からの景色だった。

最終訪問日:2018/10/15
2001年に訪れた時は、麓の説明板を見つけたものの、雨が迫る中で時間も無く、散策できませんでした。
17年振りのリベンジに成功。
のんびりした感じで、なかなか雰囲気の良いお城でしたね。